SF画廊「日ざしを浴びる人々」

[ 0 ] 2024年1月17日

映画「オッペンハイマー」が話題のようです。彼とロスアラモスにちなんだショートSFをどうぞ。

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エドワード・ホッパー「日ざしを浴びる人々」(1960)

(日ざしを浴びる人々)

1944年の秋、画家エドワード・ホッパーは、ネバダ州ロスアラモスにいた。マンハッタン計画に従事する研究者たちを慰安するために彼の個展が開催されたからだ。

この数年の後にはアメリカのみならず世界的名声を博することになるホッパーだったが、まだ彼の絵を知らない人たちも多かった。マンハッタン計画の重要スタッフの中に熱烈な彼のファンがいて開催の運びとなったのだ。もちろんホッパーはマンハッタン計画について何も知らなかった。

約一週間ほどの滞在であったが、ある日郊外を散歩中に彼は奇妙な光景を目にした。急いで手持ちの小さな画帳にスケッチをしたためた。誰にも見られないようにして。

その後スケッチは、1960年に「日ざしを浴びる人々」というタイトルで、縦102センチ横153センチの大きな油絵として描き直された。没後、彼の代表作の一つとみなされている。

ホッパーの絵に描かれる人物はすべて虚無的な雰囲気を漂わせているが、この絵は特にその傾向が強い。いったい画面の人物はどのような状況にあるのだろうと、見る者の想像力を大いに刺激する作品である。

(秘密の匂い)

美術評論家のロバート・ベッドフォードはこの作品に強い関心を持っていた。1961年3月4日、65歳の彼は日記にこう書いていた。

「ホッパーの「日ざしを浴びる人々」を初めて見たがショックを受けた。大いに奇異を感じる。荒野につくられた西部劇のセットのような場所。強烈な光のコントラスト。まもなく訪れる「終末」を待っているような人々。考えることをやめた空虚な人々。まるで操作された人たちの抜け殻を描いているように見える。」

ホッパーが1944年にスケッチをしたためたあの日、偶然、重要な秘密を知ってしまったのではないかとベッドフォードは思った。彼はその秘密をどうしても知りたいものだと思い、余生の半分をその解明に使った。

秘密が解けたのは1974年、ベッドフォードが亡くなる2年前のことだった。

(地獄の扉)

人類の歴史上最大にして最も忌まわしいオペレーションは、オッペンハイマー率いるアメリカの原爆開発であった。しかし、アメリカだけが邪悪であったわけではない。ドイツも日本も同じことを考え研究していたのである。物量に大いに勝ったアメリカだけが地獄の扉を開き得たのである。そして、その扉から地獄の釜に投げ込まれたのが日本人、しかも非戦闘員の人々であったのだ。

欧米人はとても用心深い。それは氷河時代における民族移動のすさまじいサバイバルの記憶がDNAに深く刻まれているからであろう。さらに広く欧米に移り住んだユダヤ民族は長い歴史の中で常に迫害され続けてきた。それゆえナチスに追われた欧米のユダヤ人科学者たちは人類というより彼ら民族の存続をかけて、アメリカで原爆製造のキーマンとなっていったのである。

(驚くべき報告書)

オッペンハイマーは原爆製造という忌まわしいプロジェクトの最高責任者に任じられてはいたが、実は人道的な心を持つ天才物理学者であった。原爆を生みださねばならぬ義務感と原爆がもたらす地獄の想像、ふたつの板挟みで彼は悪夢の夜を何夜も過ごしていた。

1944年の春、オッペンハイマーに奇妙な報告書が届いた。それは放射線の被爆影響を研究しているチームからのものだった。その内容は驚くべきものだった。<ある種、ある波長の放射線の軌道が計算と大きく異なる場合が頻発する。まだ確証はないが周囲にいる人間の脳波が影響しているらしい>というのだ。

さて、用心深いアメリカでありオッペンハイマーである。もし原爆開発が失敗したらどうするかも常に考えていた。オッペンハイマーの天才的頭脳に閃光が走った。彼はこの報告書から次善の策を考え出した。そして心の中でこう思った。「次善の策が原爆に取って代わられたらどれほどいいことか。。。」しかし、すでに走り出した重機関車を停止させることなど、もうできなかったのである。

(病床のホッパー)

1964年、ロバート・ベッドフォードはホッパーを訪ねた。戦後ホッパーは米国を代表する画家の一人となっていたが、この年ホッパーは健康を損ない長期療養に入ろうとしていた。ベッドフォードは最後のチャンスかも知れないと思い、無理矢理に面会を依頼し、ホッパーの入院する病院の特別室を訪れたのであった。

82歳のホッパーは背もたれを上げたベッドに横たわりながら、「日ざしを浴びる人々」にまつわる話をベッドフォードに語り始めた。初めて人に明かす秘密だった。

「もう20年近くも経つんだね~~。ロスアラモスで私はとても不思議な光景を見たんだ。それは映画のセットみたいだった。そこにあったテラスで、様々な年代の男女が日光浴をしていた。ところが皆、夢遊病者のような顔をしているんだ。日光に当たるのも数ヶ月ぶりのような感じだった。どうやら彼らはこの映画セットみたいな場所の地下で暮らしていたらしい。何やら重要な秘密実験の当事者たちだったようだ。その時はとにかく異様な光景にとても興奮し、すぐにスケッチしたんだよ」

「16年も経ってから油絵の大作に仕上げましたね。なぜ長い間をとったのでしょう?」

「当時私はロスアラモスで何が行われているかまったく知らなかった。その驚くべき真実を知ったのは戦後になってからだ。つまり原爆開発だな。ところがスケッチしたあの場所、あの人たちが行わされていたことは戦後になっても一切情報がなかった。何か隠された秘密があるに違いないと思って、怖くて封印していたんだ。私があの日スケッチしたことを知る人はいなかったが、もしそうでなかったら何らかの箝口令があったかもしれない」

ホッパーは少し咳き込んだ後、話を続けた。

「しかし私の心の隅には常にあのスケッチがひっかかっていた。それで数年前、体調の異変が起きたことをきっかけに、遺作のつもりで描こうと決心したんだ。まさか秘密に関わる絵を描いたからといって、老い先短い私を投獄しようなんて輩はいないだろうと思ってね」

彼は皮肉めいた笑みを浮かべた。

「結局彼らの秘密は、今に至るも私にはわからない。君がその真実を見つけてくれたら私はとても嬉しく思うよ。もし私が亡くなっていたら墓で耳打ちをしてくれたまえ」

彼は楽しそうに笑った。ベッドフォードは約束をするように大きくうなずいた。固い握手をしてからベッドフォードは病室を出た。

(もうひとつのロス・アラモス)

ホッパーはベッドフォードと面会した2年後に自宅アトリエで亡くなる。退院後二つの作品を描き、「日ざしを浴びる人々」は遺作にはならなかった。

ベッドフォードはホッパーとの約束を果たすべく、その後精力的に謎の解明に奔走した。彼は高名な美術評論家という立場を大いに活用した。職業の分野を問わず、社会的に成功をおさめた人物、エリート層の人物には美術愛好家が多い。それらの人脈を活かし、ついに彼はキーマンを発見した。

そのキーマンとは、当時のロスアラモスでオッペンハイマーの片腕として働いていた数学者のエヴァ・ハミルトンであった。彼女はプロジェクトのスケジューリングを統括していた。戦後スタンフォード大学の教授として働いていたが、退職後「天才たちの孤島」という著書を世に出していた。ベッドフォードは彼女が秘密を知っているに違いないと直感したのだった。

1944年のロスアラモスで行われていたもう一つのプロジェクト、いったいそれはなんだったのだろう?

エヴァはホッパーの大ファンでもあったし、ホッパーの個展をロスアラモスで開催する際には進んでスタッフに加わった。延べ3日間にわたる彼女の自宅でのインタヴューの最終日、彼女は「もうひとつのロスアラモス」についてついに話し始めた。
それは驚くべきことに1974年の今もまだ継続中であるというのだ。

(インビジブル)

エヴァが語るには、もう一つのプロジェクトは「インビジブル」と呼ばれていた。原爆開発が失敗した場合の次善の策にしようと、同時並行で進められたが、すぐに原爆開発が成功したため、プロジェクトの進行は暗雲に包まれた。

ところが、国家情報省がまったく新しい秘密兵器として「インビジブル」をつくりあげるという決断をした。マンハッタン計画以上の秘密体制のもとで研究は進められ、戦後NSAに引き継がれた。

NSAは全世界の情報の全てを盗聴する機関である。たとえれば「世界一の耳」である。ところが「インビジブル」はすでに完成していて、それは「聴く」のではなく「囁(ささや)く」装置なのだという。

「インビジブル」とは、なんと!思念波兵器であったのだ。
ある種ある波長の放射線は人間の脳波に影響されることが1944年に判明していた。そこから科学者や軍人たちが考えたのは、この放射線を使って多くの人間の脳波をコントロールできないか、それも電波のように遠くへ影響を及ぼせないかと考えたのだ。

ロスアラモスでホッパーがスケッチした人物たちは、その実験に選ばれた者たちだったのだ。霊感が強い、テレパシー能力があるなど、特異な脳力を持つ人物はかなり以前から調査が進んでいた。彼らは秘密裏にロスアラモスに集められ、脳波と放射線の結合実験に使われていたのだ。

ホッパーの「日ざしを浴びる人々」に描かれた人物はみな無気力な顔をしている。それは当然であった。地下の実験室で彼らは強烈な思考波の放出を日夜強いられ、脳が消耗していたからである。

そして、戦争が終わって1946年、ついにその兵器は誕生した。今に至るまで秘密のベールをしっかり被せられたまま。。。

(戦後の日本)

日本は世界唯一の被爆国である。原爆は戦争を終わらせたが、日本人の心が服従しない限り真の戦争終結とはならないとアメリカは考えた。天皇陛下万歳、竹槍、特攻隊がイメージする日本人のメンタリティ-をアメリカはもっとも恐れていた。

戦後の謀反・反乱を避けるため、原爆と同じように、日本に向けて「インビジブル」は使用された。その後も改良を重ね秘密裏に継続されてきた。米軍基地、原発には「インビジブル」を受信し増幅し発振する巨大アンテナや装置が、別な用途を名目にして設置されているのだ。

発信元は戦後移動し、ロスアラモスではない別な秘密の場所にある。そこは今だにわからないが、原子力潜水艦の一部がその機能を担っているらしいとの情報もある。

思い出してみよう。天皇陛下万歳の日本が、なぜ、あっというまにアメリカ万歳に変わったのか。今に至るまでアメリカに強烈なあこがれを抱き続けるのはなぜか。歴史の不思議とされたり、日本人のメンタリティーとされたり様々な解釈がなされている。

しかし、実際はその全てとは言えないまでも、「インビジブル」という思念波兵器がその原因になっていることは、知る人ぞ知る歴史の真実なのである。

思い起こせば日本でも奈良平安時代には加持祈祷が治療だけではなく、敵の攻撃にも使われていた。言い換えれば「呪いの兵器」でもあった。思念波兵器は人類の古い時代から存在していた。それを科学的に解明し応用し活用したのは、科学の歴史において決して珍しいことではないだろう。

(エピローグ)

1975年5月、ロバート・ベッドフォードは、ワシントンにあるホッパーの墓前に花をたむけ、亡き芸術家に「もうひとつのロスアラモス」についての真実を語った。

約束を果たし終えたベッドフォードには、安堵とともにまぎれもない老いが見えていた。はからずもそれは「日ざしを浴びる人々」に描かれた一人の人物に酷似していた。

翌年の冬、ベッドフォードは自宅で79歳の生涯を静かに終えた。彼はインビジブルについて、その秘密を本にすることはなかった。あまりに深い闇が見えたからである。

しかし、ホッパーの絵画「「日ざしを浴びる人々」だけは、世界中の人々に今なお真実を伝え続けている。

「短編画廊」ホッパーの絵、小説となる – ノボ村長の開拓日誌

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