SF画廊「ニューヨークの映画館」

[ 0 ] 2021年4月19日

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エドワード・ホッパー「ニューヨークの映画館」(1939)

 

 (ニューヨーク・ムービー)

濃紺に赤いストライプがきいた粋な制服を着たケイトは、上映が始まり仕事が一段落したところだ。階段そばのロビーで、右手を頬に当てながら目をつむり、もの思いにふけっていた。

 

ケイトは「ニューヨーク・ムービー」の受付兼売り子で、清掃係でもあった。ここは叔父のポールが映写技師をしている映画館である。重厚な緞帳や絨毯、彫刻がほどこされた太い柱、上品な赤い生地のゆったりした木製の座席、ニューヨークの中でも由緒ある一流の映画館である。

 

第二次世界大戦にアメリカが参戦を決めたこの年、市民は血気と不安に気持ちが揺らいでいた。そんなときに一時でも気持ちを癒やしてくれるのは映画だった。政府としても国民の団結心を強化するために映画を大いに利用しようとしていた。そんなわけでニューヨーク・ムービーには観客がたえなかった。

 

うつむくケイト、実はこのとき、とても重大な秘密を知ってしまった。

 

(ケイトの出奔)

2年前のこと。ある事情でハイスクールを中退した17歳のケイトは、生まれ故郷の田舎町を出奔した。「頑張って自活するから心配しないでいい。落ち着いたら連絡する」という簡単な置き手紙だけを家に残してきた。母はなんとなく察していたようで、家を出る前の日、彼女に少しまとまった金を渡していた。もちろん厳格な父には内緒で。

 

しかし都会に出てはみたものの、不況のこの時代、都会といえどもまともな勤め先は少ない。彼女はすぐに生活に困った。ひもじさの中これからどうしようかと思案していたとき、ケイトはポール叔父のことを思い出した。

 

次の日、ケイトはハイスクール時代の友人を通して実家にいる弟のマークと連絡をとった。そしてマークに頼んでポール叔父の連絡先を教えてもらった。マークは「姉ちゃん、あんまりムリすんなよ」と心配してくれた。こいつ可愛いところもあるなと、ケイトは一人微笑んだ。

 

(ポール叔父の思い出)

男兄弟でけっこうあるように、次男のポール叔父は長男であるケイトの父とあまり仲が良くなかった。でも、姪っ子のケイトのことは幼い頃からとても可愛がってくれた。

 

ケイトは小学校に入る前から、ポール叔父の大きなバイクによく乗せてもらった。叔父の前に乗せられてハンドルの内側を握る。カーブを曲がるときは遠心力で吹っ飛びそうになり、悲鳴を上げ続けたものだ。大きくなってからいろんなジェットコースターに乗ったが、叔父のバイクほどスリル満点のものとは今に至るまで出会ったことがない。

 

バイクのことは親に内緒であったが、興奮で上気した顔は隠せなかった。親はなんとなく気づいていたかも知れない。ポール叔父は、父や母に「ケイトと駆けっこして、もうヘロヘロだよ」なんてごまかしてくれたが。

 

映画好きだったポール叔父は少し不良じみていた。革ジャンにサングラス、いつも斜に構えたようにして、しじゅうタバコを吸っていた。ケイトと同じく叔父もハイスクールを中退して都会へ出ていた。家には何年も連絡がなかった。最後に帰ってきたのはケイトが12歳の時、祖母の葬式の時だった。

 

(叔父との再会)

ニューヨークに出たケイトは、ポール叔父と彼の勤め先である映画館近くのカフェで会った。様々な職業を遍歴した後、今いる映画館に映写技師の助手として働いているとのことだ。叔父は30をとうに過ぎているのにまだ独身だ。そのためか、まだ若者という感じが残っている。

 

「ケイト!ひさしぶりだな。マークから聞いたよ。家出したんだって?おまえはどうも俺に似ているな~。バイクに乗せたのが悪かったかな~~、ハハハ、でもおまえのお母さんや兄貴は心配でしょうがないだろうな」

 

ケイトはひととおり出奔から今までのこと、出てくる前までの家族の様子などを話した。二年前に愛犬レックスが老衰で亡くなったことを話したら、彼はとても悲しそうな顔をした。

 

「そろそろ職場に戻らないといけないや。一緒においで。ちょうど売り子が一人やめたばかりだから、なんとか俺の職場で働けるように話してみるよ。それと寝場所だが、しばらく俺のアパートで暮らすといい。そのかわり食事の用意はたまに手伝ってくれよ」

 

ということで、ポール叔父のおかげでケイトの職場と寝場所がたちまち決まった。ケイトの顔にようやく笑顔が戻った。なにせここ数日一日一食くらいだったので、カフェのパンケーキをたくさん食べただけでも大いに元気になったのである。

 

(映画館の日々)

ニューヨーク・ムービーでの仕事は忙しかったがとても楽しかった。従業員が少なかったので、入場券を売ってさらにそれをもぎる。合間を見て、売店の売り子としてお菓子や飲み物、パンフ売りもする。開館の前とか閉館の後には掃除の手伝いだ。

 

人手が足りないときはフィルムの缶を二階の映写室まで運んだり、買い物に行かされたり、雑用はたくさんあった。忙しい中でも上映中の映画をそっと見ることは欠かさない。とぎれとぎれでも毎日見ていると全編見ることができる。

 

ただ、ケイトが嫌いな戦争映画が上映中だとその楽しみも2.3週間は我慢しなければいけない。ケイトのお気に入りは恋愛物とか人間模様の映画だった。綺麗な女優の姿や衣装にはとてもあこがれて、何度見ても飽きなかった。

 

年頃のケイトが一番気にいっていたのは、実はこの映画館の制服だった。濃紺のスーツにおしゃれな金ボタン、控えめに縫い込まれた赤いストライプ、金髪の彼女にとてもよく似合った。一も二もなく就職を決めたのは、この制服を着てみたいと思ったからだった。

 

ポール叔父は料理を手伝ってくれるケイトの同居にとても感謝していたが、実はケイトに内緒で兄や義姉に経緯と近況を知らせていた。ケイトの両親が何も言わなかったのは、ポール叔父がしばらく自分に任せてくれと強くお願いしていたからだ。ケイトの両親も、彼女が身内と一緒に居る方がずっと安心なので、ポールに一任することにしたのだ。

 

(ケイトの疑念)

勤めてから1年を過ぎた頃からケイトは不思議なことに気づいた。入る人より出る人のほうが多いように思える日がときどきある。館内に入るときは券を必ずもぎるし、上映中は館内の出入り口がしっかり閉められるので、不法者が入り込むことは決してできない。

 

ところが、ケイトは週に1,2回くらい、出る人が数名多い気がしてしょうがないと感じることがあるのだ。だが、きちんと数えているわけではないので自分の感覚がおかしいのだろうと思い誰にも話さなかった。

 

それでもある日、帰宅してからポール叔父にそのことを話した。叔父は少し顔色が変わったように見えたが、すぐさまいつもの柔和な微笑みに戻った。そして「オカルト映画の見過ぎじゃないかな?ほら、先月のあの映画さ」と軽くいなすのだった。

 

しかしケイトの疑念はつのるばかりで、それでときどき、手を頬に当てながらあれこれ考えることが多くなってきたのだ。

 

(映画館の秘密)

ケイトの疑念は、実は真実だった。この映画館ができたのは第二次世界大戦の開始より20年も前のことである。創業者はユダヤ系でニューヨークで一財産を築いた人物だった。この映画館の他に多くのホテルや店舗を所有している。

 

やがて第二次世界大戦が始まった。ナチスはユダヤ人のホロコーストを極秘にしていたが、ニューヨークのユダヤ人コミュニティーは独自のネットワークでその実態を把握していた。そして同胞を救うためになんとかしなければと、強く、とても強く思っていた。

 

創業者はユダヤ人の豊富な人脈を活かし、秘密プロジェクトを開始した。どのようにして秘密裏に進められたのか、後世になっても想像がつかないほど困難なプロジェクトだった。彼らはヨーロッパの同胞を救うために(言葉通り)必死だった。

 

(カサブランカ)

彼らのプロジェクトは、同時期の映画にちなんで「カサブランカ」と名付けられた。どちらもナチスからの救出という共通点があった。

 

彼らはまずニューヨーク・ムービーの地下に深さ50メートルの井戸を掘った。その後、海に向けて少しだけ斜め下に角度をつけて約2キロのトンネルを掘り進んだ。トンネルの直径は2メートルほどであった。最後の工事でトンネルは海水に満たされた。

 

この工事は1941年に開始され2年後の1943年に完成した。もちろん公には秘密裏に進められた。住民は下水道工事と思っていたに違いない。

 

このトンネルは一人用の小型潜水艇の水路であった。

 

工事をしていた頃、ナチスの蛮行から一人でも多く救い出すため、ユダヤネットワークは様々な活動を模索していた。しかし多数の同胞を一度にたくさん救い出すことはとても困難だった。ナチスの監視システムは実に強力だったからだ。そんな中で、救出人数の多寡はともかく、この救出作戦は成功例であった。

 

(救出の方法)

彼らは地獄のガス室へ送られるすべての同胞を救いたかったが、それは不可能であった。救出者(救出される人)を選ばねばならなかった。彼らが決めた救出者の基準は、後にユダヤ民族の復興、イスラエル国家の成立に貢献するであろうと期待される人物だった。どれほど苦渋の決断であったことだろう。

 

カサブランカの救出方法はかなり荒かった。はじめに救出者を誘拐し薬品で仮死状態にする。その後人間を魚雷のような円筒形の金属容器に入れる。この乗り物は「ドルフィン」と呼ばれた。

 

ドルフィンにはバッテリー駆動の小型スクリューと発信器が付いていた。内部には仮死状態の人間をかろうじて生存させられる酸素が充填されている。その人の入ったドルフィンをさらに棺桶とか運送物に隠し、霊柩車やトラックで海に運ぶ。

 

海岸でドルフィンのバッテリースイッチをオンにして海に沈める。ドルフィンのスクリューが回転し、海中をゆっくり進んでいく。近くにいる漁船が微弱な電波を受信して位置を把握する。漁船はドルフィンに漁網をからめ沖合へと進む。

 

沖合で協力者である中立国の貨物船や客船と出会い、ドルフィンを引き渡す。ドルフィンの中から救出者が出され船内でかくまわれる。ドルフィンは役目を終え海底へ沈められる。

 

ニューヨーク港の沖合に着くと、救出者は出発と逆の要領でニューヨーク市内へ運ばれる。船に備えられたドルフィンに再び入れられ、海中へ沈められる。出発の時と違い救出者を仮死状態にする必要はないが、恐怖心を抑えるため睡眠薬が処方される。

 

ドルフィンは海中を自力で進み、無線誘導装置によってニューヨークムービーの水路へと導かれる。救出者は井戸からニューヨークムービーの館内、具体的にはスクリーン裏の秘密部屋へ運ばれ、数日間休養する。その間に救出者のパスポートや身分証明書などが偽造される。やがて映画館が混んでいる日の上映後に観客として館を出る。

 

なぜ秘密のなかで入国させるのかと言えば、救出者はこの後にユダヤネットワーク独自の重要な機密プロジェクトに関わる人物であるからだ。アメリカ政府や同盟国のイギリス政府にさえ知られてはまずかったのだ。

 

カサブランカによって、1943年から1944年の間に253名が救出された。戦後、彼らはイスラエルの建国や国防に深く関わったことが知られている。

 

(その後の二人)

ケイト一家の父方の先祖はポーランドからのユダヤ系移民だった。数代前に彼らの一族はプロテスタントに宗旨替えをしていた。

 

ポール叔父は放浪の末、ニューヨークでこの映画館の経営者に拾ってもらったわけだが、経営者やユダヤ人の同僚たちと付き合う中で、ルーツであるユダヤ人の魂が目覚めたらしい。彼は逆にユダヤ教に改宗した。

 

しかし彼の真の動機は、イスラエル建国という夢に惹きつけられたからだった。新天地で心機一転、今までの人生をリセットして、やりがいのある人生に挑めるに違いないと思えたからだった。

 

希望通りポール叔父は戦後イスラエルに渡った。集団農場キブツのリーダーとして頭角を現し、1968年国会議員に当選した。イスラエルで結婚し、二人の子供をもち、1980年に亡くなった。

 

アメリカの実家に送った最後の手紙にはニューヨーク・ムービー時代に彼が撮った写真が同封されていた。それは映画館の階段下のロビー、濃紺に赤いストライプがきいた粋な制服を着たケイトが右手を頬に当てながら目をつむり、もの思いにふけっているスナップだった。

 

戦後、実家に戻りハイスクール時代の同級生と結婚したケイトは、三人の子供を持ち幸せに暮らしていた。とても久しぶりにポール叔父からの手紙が届いた。
開封し、35年前の自分の写真を見てあの頃の記憶が蘇った。そして手紙の文章を読んで初めて得心が行った。「あの頃私が不思議に感じていたこと、入る人より出る人が多いというのは本当だったんだ。。。」

 

カサブランカによってナチスから救出されたユダヤ人はたった253名に過ぎないが、彼らの執念と能力の爆発はすさまじかった。戦後たった3年後の1948年、イスラエルは国際政治のとてつもない圧力のもと、強引に建国を果たし高度防衛国家になった。

 

ある日ケイトは国際テレビニュースを偶然見た。そのとき、アラブ諸国との紛争を指揮する国家の中枢人物をどこかで見た覚えがあるとはっきり感じた。実は、彼も三十数年前ニューヨーク・ムービーの扉をくぐって出てきた救出者の一人だったのである。
戦後ニューヨークムービーは解体されて高層ビルに変わった。今、当時の秘密を知る者はケイトの他10人に満たないはずである。

 

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