深沢七郎「庶民烈伝」より
深沢七郎、この偉大な作家をなんと表現すべきか。。。
彼のデビュー時に当時の大作家たちが衝撃を受けたのは「さもありなん」です。
構造人類学の祖レヴィ=ストロースにはまった中沢新一さんは、著書『野性の科学』で深沢七郎に多くのページを割いています。
深沢七郎の本を数冊読んだだけですが、私はその理由にとても納得しました。
深沢七郎の世界は、レヴィ=ストロースが観察し、研究した世界と同じだったのです。
彼の描く「庶民」は、文化人類学の研究対象であった世界各地の先住民たちの社会と、とても近しいのです。
そこには現代の「栽培化された思考」に対する、交雑、交配を(意図的に)避けてきた「原種」ともいうべき「野生の思考」が残っているのです。
深沢七郎は、自らもそのものである「原種」「野生の思考」の世界を描く作家なのです。
彼の作品は、昔も今も変わらぬ原初的な人間の姿(原型)をユーモア(と哀切)たっぷりに描き、私たちの中に残る「野生の思考」を呼び起こしてくれます。
そして近代的な風景の中で私たち人間も近代的になったということや、日々進歩する歴史ということが、錯覚であると感じるようになるのです。
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深沢七郎の『庶民烈伝』の中からサワリだけ紹介します。
おもしろいですよ。
ちなみに「列伝」ではなくて「烈伝」なんです。
たしかに出てくる方々はユーモラスで「烈しい」庶民的野性を持っています。
『庶民烈伝』序章
・・・このインテリ息子の説では、庶民以外の階級の者はみんな異常神経の持主だそうである。
例をあげると、上高井戸のダンナの知人の職工さんが独立して工場を持つようになったそうである。
製品は女のヒトが髪の毛をセットするのに使うクリップで、設備も簡単らしい。
その職工さんは毎日々々クリップを作っていたが、1人で作るより2人で作るほうが能率もあがるし、費用も少ないことになるそうである。
「それから小僧さんを2人ばかり入れて、そのうち15人もふやしましたよ」
と上高井戸のダンナは言った。
「あんなのが異常神経だよ」
とインテリ息子さんは教えてくれた。
「だから、ほかの者より以上に金を儲けようとか、ほかの者よりぬきんでた者になろうとするのは、異常神経だよ」
とインテリ息子は言うのである。
つまり、学校などでも、ほかの生徒より勉強して上位の成績をとろうとするものは、みんな異常神経の持主ということになるそうである。
実業家が経営を拡大するという考えも異常神経だし、選挙運動などをやって政治家になるのも異常神経だし、太閤秀吉とか中国の漢の高祖などはみんな異常神経だそうである。
テレビに出演して大勢の前で唄を歌いたいという考えを起すのも、作家も、映画俳優もスポーツ選手もみんな異常神経の持主だそうである。
「ずいぶん、大勢、ありますねえ、この世の中には異常神経の人達が。異常神経の人ばかりじやァないですか」
と私は言った。
「いや、庶民は異常神経ではないですよ、庶民だけですよ」
とインテリ息子さんは言った。
「庶民と異常神経では、どちらが多いでしょう?」
と私はきいてみた。
「それは庶民の方が多いでしょう」
と横でダンナが言った。
そう言われて私も気がついたことがあった。
それで、「あててみましょうか、庶民がどのくらいあるか」と言うと、
「どのくらいありますか?」
とダンナは膝をのりだした。
「50対5、で、50人の中で5人だから10対1ですよ」と私は言った。
「どうしてそうなりますか?」
とダンナは言った。納得がいかないらしい。
「そうなりますよ、学校なんかで1クラス50人のうち、優秀な生徒は1番から5番ぐらいまでだから、異常神経の生徒は5人で、あとはみんな庶民だから」
と私は説明した。
「ずいぶん乱暴な!」
とダンナは目をまるくした。
「ソレソレ、そういう乱暴な理論が庶民の理論だよ」
とインテリ息子が言った。
(そうだナ)と私はうれしくなった。
私の言うことは庶民だつたのである。
庶民と言われると私はうれしくなってしゃべり始めた。
深沢七郎によれば「庶民」とはこんな性質であるらしく、それぞれの性質についてその具体的な実話を紹介しています。
・庶民は乱暴である
・庶民は「あわてんぼう」である
・庶民は騙されやすい
・庶民は嘘つきである
・庶民は「だいたい、デタラメ」で大丈夫である
彼の言う「乱暴」や「嘘つき」とかは私たちが普段使う意味とは違うのです。
彼はすべて「上品」「乱暴」「ゲヒン」の三つで分類します。
詳しくはこちらで →ギターがスポーツ?
庶民は乱暴である
・・・製本屋のご主人が、こっくりこっくり居眠りを始めると、決まったように奥さんは、眠りから覚まそうとして、「ある行動」に出る。
ご主人と向かい合わせに座っていた奥さんは、そろりそろりと自分の股を大股にひらいて、それでご主人の目を覚まそうとするのである。
私の見たこの時は奥さんの股はかなり拡がって、
「ハッ」
というご主人の溜息のような、気合いのような声が洩れた。
ハッと、神様でも拝むように頭を下げてご主人の手はまた激しく紙をおりはじめた。
「ジャーッ ジャーッ」
と紙をおる音は力がはいって、また夫婦の手は一所懸命に働いているのである。
「あわてんぼう」のおっかさんの話もおもしろいです。
そういえばこんな人たちいたよな~(いるよな~)。
庶民にとって「体は道具」であるのです。(これも深い。。。)
詳しくはこちらで →からだは道具なり
庶民は「あわてんぼう」である
落花生を煎ってもてなそうとしたおっかさん。
ところが炒り箸が見つからないまま鍋をかけてしまった。
突然おっかさんは熱い鍋の中に自分の手を入れてかき回し始めたのだった。
5本の指を熊手のように揃えて掻き回すのだが、豆ばかりを掻き回さないで熱い鍋の底にも指がさわるらしい。
「アチイッ」
と言って手を腰にあてて押さえつけて手をさまして、
「待っておくんなって、いま、すぐ出来やすから」
と言った。そうしてまた手で掻き回して
「アチイッ」
と手を腰にあてて、
「待っておくんなって、いま、すぐ出来やすから」
と言って、また、手で炒るのである。
深沢七郎の眼は、まるでそれ自体は感情のないカメラのようにクールです。
こんな笑い話みたいなことに何感心してんの?と思う方がいらしたら、数冊読んでみるといいですよ。
まるで自分たちの中にある深~い洞窟を見たような気がしますから。
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それにしても我ながらびっくりします。
レヴィ=ストロースの構造主義と深沢七郎の世界がこんなにも近しく感じられるとは。。。
きっと「生き物としての人間たち」という視点を持った「根源的な文学世界」なんですね~。
by NOBO
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