言葉の大切さ

[ 0 ] 2012年11月9日

「ヤバイ」「超ヤバイ」「超々ヤバイ」。若者の多くは、これだけで大概のことを言い表しているようです。近い将来、大人も子どももみんな、こんな言葉しか使わない時代が来るかも。美しいことは「キレイ」「超キレイ」「超々キレイ」と。それはどんな世界につながっていくでしょう?

「会社の言葉は英語にします」という企業が増えてきました。

でも、今に始まったことではありません。

明治以降、日本語はすべて「ローマ字」にすべきとか、「エスペラント語」に統一すべきとか、そんなことを主張するエライ方々がいました。

かく言う私も似たようなもので、四十年も前、東京に住んでいたときは「方言」をとても恥ずかしく思う時代がありました。

ある日のこと、交番で道を聞こうと標準語で話しました。

しかし「口から馬脚?」ですね。最後に「そすか(そうですかの方言)」と出てしまい赤面でした。

ある女性は、けっこう都会の仮面を上手に付けていた(つもり)のですが、何かに頭をぶつけたとたん、「アデ!(痛い)」と発してしまいました。いやはや生まれ育ちは隠せないものです。

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何もかにもグローバル化した現在、わが国では、かつての「ローマ字に統一すべきだ」という考えが「英語に統一すべきだ」に代わって、また復活してきたようです。

たしかに、外国人とのコミュニケーションが難しいのは問題だと思います。

でも、英語一辺倒になるということは、私たちのルーツが希薄になっていくことでもあります。

アルファベットとはまったく異なる構造をもつ言語圏の日本人が、日々のほとんどの時間を、英語を中心に使うということは、ヨーロッパなどの他国と比べて、とても大きな影響があります。

(中国語はどうなんだと言われそうですが、中国語は文法の構造が英語にとても近いようです。)

明治以降、和服を寸法の合わない洋服に着替えて、マネばかり得意の今日の日本ができたのと、何か似たものを感じます。

同じ構造の言語圏なら、同種の言語をいくら用いても、自らのルーツやアイデンティティーを十分保てるでしょう。

日本の場合は、失っていくものはとてつもなく多いことでしょう。

そんなこともよくよく考えたうえで、どうするのがいいか?というのがエライ方々には必要だと思うんですがね。

言葉を「効率教」で考えると、こんな世界がやってきますよ、という例を一つご紹介します。

40年ぶりに読み返しているジョージ・オーウェルの「1984」からです。

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 「麗しいことなんだよ、単語を破壊するというのは。言うまでもなく最大の無駄が見られるのは動詞と形容詞だが、名詞にも抹消すべきものが何百かはあるね。無駄なのは同義語ばかりじやない。反義語だって無駄だ。

 つまるところ、ある単語の反対の意味を持つだけの単語にどんな存在意義があるというんだ。一つの単語にはそれ自体に反対概念が含まれているのさ。

 いい例が(良い)だ。(良い)という単語がありさえすれば、(悪い)という単語の必要がどこにある? (非良い)で十分間に合う  いや、かえってこの方がましだ。〈悪い〉がいささか曖昧なのに比べて、まさしく正反対の意味になるのだからね。

  或いはまた〈良い〉の意味を強めたい場合を考えてみても、(素晴らしい)とか(申し分のない〉といった語をはじめとして山はどある曖昧で役立たずの単語など存在するだけ無駄だろう。
 
 そうした意味は〈超良い〉で表現できるし、もっと強調したいなら(倍超良い〉を使えばいいわけだからね。

 もちろんわれわれはすでにこうした新方式の用語を使っているが、ニュースピークの最終版では、これ以外の語はなくなるだろう。最後には良し悪しの全概念は六つの語!実のところ、一つの語-で表現されることになる。どうだい、美しいと思わないか、ウインストン~むろん元々はB・Bのアイデアだがね」

 「分かるだろう、ニュースピークの目的は挙げて思考の範囲を狭めることにあるんだ。

 最終的には(思考犯罪)が文字通り不可能になるはずだ。何しろ思考を表現することばがなくなるわけだから。必要とされるであろう概念はそれぞれたった一語で表現される。

 その語の意味は厳密に定義されて、そこにまとわりついていた副次的な意味はすべてそぎ落とされた挙句、忘れられることになるだろう。

 すでに第十一版で、そうした局面からほど遠からぬところまで来ている。しかしこの作業は君やぼくが死んでからもずっと長く続くだろうな。年ごとに語数が減っていくから、意識の範囲は絶えず少しずつ縮まっていく。

  「二〇五〇年までにたぶんそれより早くオールドスピークについての実際的な知識はすべて消えてしまうだろう。

 過去の文学はどれも破棄されてしまう。チョーサー、シェイクスピア、ミルトン、バイロンそれらはみんなニュースピーク版でしか存在しなくなる。

 何か別物に変わっているというに留まらない。元のものとは事実上矛盾するものへと変わっているのだ。党の文学でさえ変わるだろう。スローガンでさえもね。

 自由という概念がなくなってしまったときに、(自由は隷従なり)といったスローガンなど掲げられるはずもない。思考風土全体が変わるのだよ。実際、われわれが今日理解しているような思考は存在しなくなる。

 正統は思考することを意味するわけではない。その意味するところは思考する必要がないこと。正統とは意識のないことなのだ

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しばらくの間、わが閉塞状況にある日本は、単純な紋切り型の絶叫を繰り返す人に強いあこがれを示すことになるでしょう。

それは、「1984」の世界に近づくことです。

現実に存在した「ナチス」「大日本帝国」「旧ソビエト」「北朝鮮」と似た要素が増えていくことです。

「言葉」というものを「目先の効率の道具」と思ってはいけません。

「言葉」こそ「私たちの思考そのもの」、いや「私たちの存在そのもの」ともいうべき大事なものなのです。

「経済学」とか「物理学」とか諸科学の根本に、それを「人にとって善きものとなさしめる」ために「ことば=文学」があるのだ、と私は思っています。

 

投稿者:ノボ村長

Category: キラっと輝くものやこと, 大切なこと

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