木を見る西洋人 森を見る東洋人
もしすべてが違っているとしたら?
「論理的に正しい文章は、日本語であれ英語であれ正しいことに変わりない」
「同じ絵を見ている中国人とアメリカ人がいれば、彼らの脳裏に映る画像は当然同じものである」
これらが。
2004年に出版された本です。米国の心理学者が、科学的実験をもとに著した興味深い本です。
私は本当のところ、どうにも「論理」とか「討論」とか、そういったものが嫌いです。
「詭弁(きべん)」とか「無学者議論に負けず」とか「屁理屈」とか、そんなことばっかし目に付くもので。
「それじゃどうするの?」と言われても「だからこうだ」と堂々と言えることも又ありません。
しかしなんとなく、「論理」とは別の思考や判断基準が、自分というか、自分に近い感性の人にあって、そのほうがまともじゃないの?という無意識の自負があるようです。
ま〜、そんなことを日々感じているんですが、この本が少し展望を与えてくれました。
肌の色や国籍、宗教が違えば、見ていることも考える方法もみな違っているんです。驚くほどに。
そこに、あらたな世界的人間関係の再構築の可能性も。。。
ほんの少しだけ、本から興味深い実験の一部を紹介します。金魚の話です。
「トンネルのような視野」
私の研究室の新しい日本人学生、増田貴彦は、身長一メートル八八センチ、体重一〇〇キロで、アメリカン・フットボールをやっていた (そう、アメフトである。このスポーツは日本でも人気がある。ミシガンにやってきて間もないその秋、彼は初めてのビッグテンの試合を見に行けるといって非常に興奮していた。
増田は試合にはとても感動したのだが、仲間の学生たちの態度には唖然としていた。皆がずっと立ちっぱなしだつたので、よく見えなかったというのである。「日本では」と彼は言った。「誰でも小さいころから、後ろにも目をつけていろと言われています」。
これは何も、疑心暗鬼になれという意味ではない。自分の行為によって他人が不愉快な思いや不便な思いをしていないか、常に気をつけなさいという意味である。アメリカ人の学生があまりに後ろの人に対して無頓着なので、それが彼の眼にはひどく無礼に映ったのだろう。
アメフト・ファンの態度を見て、増田は 「アジア人は世界を広角レンズで見ているが、アメリカ人はトンネルのような視野しかもっていない」という仮説を検証しようと思い立ち、非常にシンプルな方法で実行に移した。水中の様子を描いた数種類のカラー・アニメーションをつくり、京都大学とミシガン大学の学生に見せたのである。
図5の上段はその一コマをモノクロで再掲したものである。どの場面にも、一匹または複数の「中心的な」魚がいた。その魚は、画面中に登場する他のどの生き物よりも大きく、明るい色をしていて、いちばん動きが速かった。
それぞれの場面にはこの魚のほかに、もう少しゆっくりした速度で進む生き物と、水草、石、泡などが描かれていた。実験参加者は約二〇秒間の場面を二度ずつ見た後で、自分の見たものを説明する(記憶を「再生」する)ように求められた。
参加者の回答は内容に応じて、中心の魚、その他の生物、背景や無生物といった具合に分類された。
アメリカ人、日本人とも、中心の魚についての回答数はほぼ同じだった。しかし、水や石、泡、水草、動きの鈍い生き物といった背景的な要素については、日本人の回答数はアメリカ人より六割以上も多かった。
加えて、日本人もアメリカ人も、活動的な生物と他のものとの関係についての回答数はほぼ同じだったのに対して、日本人は、背景の無生物と他のものとの関係についての回答がアメリカ人のおよそ二倍もあった。
とくに印象的なことに、日本人参加者はその第一声で環境について述べることが多かったのに対して(「池のようなところでした」など)、アメリカ人は中心の魚から話を始めることのほうが三倍も多かった(「大きな魚がいました、多分マスだと思います。それが左に向かって泳いでいきました」など)。
こうして自分の見たものを報告した後で、参加者は、魚やその他の生物、無生物が描かれた九六枚の静止画を見て、前に見たことがあるかないかを答える(記憶を「再認」する)ように求められた。
半数はアニメーションのなかに登場していたもので、もう半数は初めてのものだった。さらに、アニメーションと同じ環境のなかに描かれたものと、見たことのない環境のなかに描かれたものがあった。下段の二つの図はその例である。
日本人学生の場合、それらがもとの環境のなかに描かれているときのほうが、新しい環境のなかに描かれているときよりはるかに再認成績がよかった。
魚も物も、最初に眼に入ったときに環境と「結びつけられ」、そのままの形で記憶に残されたと考えられる。
一方、アメリカ人の場合には、もとの環境のなかにあろうと新しい環境のなかにあろうと、まったく何の影響もなかった。魚も物も、環境とは完全に切り離された形で知覚されていたと考えられる。
その後の追試研究で、増田と私は、さまざまな種類の動物をいろいろな文脈のなかに配置して実験参加者に見せた。今度は再認の正確さだけではなく、再認のスピードも測定した。
やはり、日本人はアメリカ人よりも背景の影響を受けやすく、動物が新しい背景と一緒に示されると、もとの背景と、一緒のときよりも誤答数が増えた。さらに、日本人の判断のスピードは動物が新しい背景とともに示されると遅くなつたが、アメリカ人の判断のスピードは変化しなかった。
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