天野祐吉「広告の広告」

[ 0 ] 2019年7月4日

天野さん最後の著書『成長から成熟へ』は、やはり成熟した見方の本だな〜と思います。

成熟には発想の転換が必要です。そんな「広告」のお話です。

広告といえば、思い浮かべるのはこんなものでしょう。

テレビコマーシャル、新聞広告、電車の中吊り広告、チラシ、看板、ホームページ・・・

ところが天野さんは、こんなもの、こんなことも「広告」なんだと言っています。

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天野祐吉『成長から成熟へ』より

広告を広告する

ついでだから、ここでちょっと休憩をかねて広告を広告させてもらうと、別に広告というのは資本主義に特有の産物じゃありません。神代の昔からありました。

神話というのはだいたい広告的な働きを持ったもので、「古事記」とか「日本書紀」というのはこの国の成り立ちを広告的に書いたものだし、いまの平和憲法だって、日本の国体を内外に広く広告する働きがあります。戦争なんかしないと宣言した国だというんで、日本は世界中に好意を持たれているし、日本人のアイデンティティにもなっているんじゃないですか。

古代中国の始皇帝さんが万里の長城をつくったのだって、外敵の侵入を防ぐのだけが目的じゃない。彼の権力の偉大さを敵にも味方にも、あれは誇示する広告だったとぼくは思っていますし、豊臣秀吉さんが後陽成天皇の即位を祝って衆楽第で開いた大イベントだって同じようなものでしょう。

イエスさんが村はずれの木の下で、足の不自由な老婆の足をさすって治すという奇跡を起こしたり、空海さんが水飢饉の村でボンと杖で地面を叩いて水を湧き出させたなんていうのも、目に見えない神さまや仏さまの力を人びとにわかりやすく広告する行為と言えそうです。

こうした宗教広告や政治広告のあとから商業広告は生まれてくるのですが、亡くなった杉浦日向子さんによれば、江戸時代の浮世絵の大半、それも役者絵や力士絵や美人の絵は、いまでいうブロマイドみたいなもんで、ほとんどが広告だったそうです。

一八世綻の江戸は、世界に冠たる広告文化都市で、おでん売りとか金魚売りのような物売りの声の洗練度もすごいものがあるんじゃないかと、つねづねぼくは思っています。金魚売りなんて、「キンギョ〜エ〜キンギョ〜」と、文字にしたら商品名を連呼しているだけですよね。それなのに、あの独特の節回しが、夏の涼しげな縁側のイメージを呼び起こす。その縁側に置かれた金魚鉢の中を泳ぐ金魚の姿を連想させる。すごいもんですね。いまどきのCMソングなんて顔色なしです。

面白い見方ですね〜。

広告とは「私はこれですから」と皆に知らせることなんですね。

「宗教広告」「政治広告」「商業広告」と進化してきたと書いてますが、その次は「人間広告」?

そうすると女性のお化粧した顔も広告、怖いおんつぁんのイレズミも広告、つまりは全人類全広告になっちゃいますね。

もっと拡大解釈すると「広告は公告」なりで、企業の財務諸表さえも公告の広告か?なんて妄想はふくらみます。

Category: おもしろいこと, キラっと輝くものやこと

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