一人一人が一反百姓

[ 0 ] 2019年6月18日

自然農法の創始者にして、粘土団子による砂漠の緑地化にも貢献した故福岡正信著『緑の哲学』を読んでいます。スイスイ頭に入ってきます!

二坪百姓の私、かわいい野菜たちはその成長に歴然たる差がでてきました。

毎日野菜を眺める習慣がついたこの頃、あれこれ考え始めました。

「野菜は自給自足できるはずだ。しかし米は広い田んぼが必要で自給自足はとても難しいだろう」

ところが福岡正信さんの『緑の哲学』を読んでいたらそうではなさそうだ、というふうに思えてきました。

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一反歩(10アール=300坪)の土地があれば、一家が十分自給自足できるというのです。

さらに話は進み、「国民皆農」を彼は唱えました。

「狭い日本、そんな土地などあるわきゃないさ、あったてできるわきゃないさ」

いや、そうでもないようですよ。

本書から興味深い点を一部だけですが引用させていただきます。

私なんかがコメントできる内容ではないので引用だけにとどめたいと思います。

人々の帰農を拒否している第二の難関は、農地が入手できるかである。

小さな島国の中に一億人がひしめき、地価は暴騰して農地を入手することは極めて困難にみえる。

こんな状態の中で私はあえて国民皆農をとなえているのである。

日本の農地は約600万ヘクタールで、大人一人当り10アール(300坪=一反)以上の面積になる。

日本の土地を2000万世帯に分割すれば、一家一世帯当り三反歩の農地と、その他に山林原野が一ヘクタール(一町)がつくわけである。

一家数人の者が、完全な自然農法で自給体制をとるために必要とする面積は、わずかに10アール一反歩でよい。

その面積の中で小さな家を建て、穀物と野菜を作り、一頭の山羊、数羽の鶏や蜜蜂を飼うこともできる。

もし全国民が本当に一反百姓の生活に満足できるならば、その実現は不可能なことではない。

人々は地価の暴騰している現在、それは絶望的だと思っているのであるが、実際は日本の土地は十分ありあまっているのである。

確かに、日本の農家は、世界で一番勤勉で技術が進み、多収穫しているが、土地が狭く経営の条件が悪いため、

経済的にみれば、労働の生産性が低くて、割り高の農産物になるから、外国産のものにたちうちできないとみられやすい。

したがって農業学者は、生産費が低くて、割安の外国農産物を購入する方が、商売としても得である。

日本で農業をするのは、根本的に無理で、食糧は国際的に分業して、米国あたりで作ってもらえというのが、彼らの理論であり、それが現在の日本の農政の根幹となっているのである。

ところが、農業の本質は、もうけるもうけないは目標にならない。

その土地をどんなに生かすかが最大の問題となる。

自然の力を最大限に発揮せしめて上作をすることに目標をおく。

それが、自然を知り、自然に近づく道でもあるからである。

所得本位でなく人間本位でもなく、その田畑が主体である。

自然の田畑が、自然の代理者であり、神である。

神に仕える農夫なれば、彼の報酬は第二の問題で、田畑がよく豊かに稔れば、百姓はそれを喜び、満足できるはずである。

その意味からすると、日本の百姓は土地を生かすことに忠実であったから、世界で最も優れた農夫であったといえる。

五反百姓、一反百姓は、農業の源流の姿といえるのである。

また、一反百姓論は貨幣経済からの脱出を目ざしているものである。

多収をあげながら日本農民の労働生産性が低かったということは誇りになっても恥ではなかった。

低収入は農産物の価格が不当に安すぎたか、生産資材が不当に高く、生産費が割高になつたことによっただけのことである。

ところが、農作物の価格を決めるのも、生産費になる資材なども、百姓が自ら決定するということは、今だかつてなかった。

日本の農作物の価格が高くなるのも、安くなるのもあなたまかせで、自家労力に対する報酬なども計算したことはなかった。またその必要もなかった。

ということは、百姓は、金を目的としているようにみえて、金には無縁であり、所得のために農業を営んでいたのでもなかった証拠である。

私が極言して、農作物に価格がいらないというのは、あっても百姓には無かったのと同じであるという意味と、

自然農法に徹し、あらゆる科学的資材を使わず、自家労力を計算外にすれば、農産物の価格は零となる。

もし全世界の農民が、この考えに立てば、世界の農産物価格は、万国共通で同一になってしまうということである。

すなわち価格無用論になろう。

価格は人為的に造られ、自然にあるものではない。自然はもともとただであって、無差別、平等でよかった。

自然に金銭的価値はつけられない、本来自然の農作物には、貨幣は無縁のものであった。

日本の米も、タイの米も、農民の米価は同じでよい。キュウリが真っ直ぐだろうが、歪んでいようが、果物の大小にもケチをつけるべきではなかった。

苦いキュウリ、酸っぱい果物にも別の価値があるはずである。

ソローの考え方と実に共通なものを感じました。

ノボ村長

Category: 大切みらい研究所, 新しい農業

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