便所掃除の詩(うた)

[ 0 ] 2021年9月19日

茨木のり子著『詩のこころを読む』でとても美しい詩を知りました。とても臭いんですが。。。
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最初びっくりした詩ですが、読んでいるうちに心がじんわりとしてきました。

さらに茨木のり子さんの詩評を読むと、こちらもご本人が優しいお顔で私に話してくれているようで、とても温かい気持ちにさせてくれます。

便所掃除    濱口國雄(はまぐちくにお)

扉をあけます
頭のしんまでくさくなります
まともに見ることが出来ません
神経までしびれる悲しいよごしかたです
澄んだ夜明けの空気もくさくします
掃除がいっペんにいやになります
むかつくようなババ糞がかけてあります

どうして落着いてしてくれないのでしょう
けつの穴でも曲がっているのでしょう
それともよっぽどあわてたのでしょう
おこったところで美しくなりません
美しくするのが僕らの務めです
美しい世の中も こんな処から出発するのでしょう

くちびるを噛みしめ 戸のさんに足をかけます
静かに水を流します
ババ糞に おそるおそる箒をあてます
ポトン ポトン 便壷に落ちます
ガス弾が 鼻の頭で破裂したほど 苦しい空気が発散します
心臓 爪の先までくさくします
落とすたびに糞がはね上がって弱ります

かわいた糞はなかなかとれません
たわしに砂をつけます
手を突き入れて磨きます
汚水が顔にかかります
くちびるにもつきます
そんな事にかまっていられません
ゴリゴリ美しくするのが目的です
その手でエロ文 ぬりつけた糞も落とします
大きな性器も落します

朝風が壺から顔をなぜ上げます
心も糞になれて来ます
水を流します

心に しみた臭みを流すほど 流します
雑巾でふきます
キンカクシのうらまで丁寧にふきます
社会悪をふきとる思いでカいっぱいふきます

もう一度水をかけます
雑巾で仕上げをいたします
クレゾール液をまきます
白い乳液から新鮮な一瞬が流れます
静かな うれしい気持ですわっています
朝の光が便器に反射します
クレゾール液が 糞壷の中から七色の光で照らします
便所を美しくする娘は
美しい子供をうむ といった母を思い出します
僕は男です
美しい妻に会えるかも知れません
− 『濱口國雄詩集』

(以下、茨木のり子さんの文章を引用させていただきます)

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便所掃除が詩になるなんて、西洋の詩神が知ったら腰をぬかすでしょう。そういう意味からも、この詩はきわめて斬新、前衛的、堂々として、詩で、あります。いろんなアンソロジー(詞華集)にも入っていますから、たくさんの人に愛され、今まで残ってきたことがわかります。

「どうぞこの人に、姿かたちも気だても美しい、人もうらやむ楚々とした新妻があらわれますように…‥・でなかったら、怒っちゃうから、もう」はじめて読んだとき、そういう祈りが心の底から湧いてきたのでした。

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作者の濱口囲雄は、国鉄職員(一九二〇−七六年)で、金沢市で荷物輸送の専務車掌を長くやっていました。作者の若い時 − 敗戦後の混乱期にあたりますが、その頃書いた一篇です。一九五三年頃は、衣食足らず、したがって礼節も知らずで、駅でも公衆便所でもひどいよごしかたでした。

当時は、たとえ大学卒でも、新入駅員はまず最初、駅舎やホーム、便所掃除をやらされたのだそうです。読んでまっさきに頭に浮んだのは、私が小学生当時やらされた便所掃除当番のことでした。まったくこの通りで、まざまざとよみがえってきたのは、濱口國雄の詩がリアルだからでしょう。いやでいやでたまらないけれど、一大決心でやり終えれば、せいせいした気分になって帰るのでした。

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かつては学校でも職場でも、噺家、俳優志願の若者でも、まっさきにやらされたのは便所掃除という教育法で、いまにして思えばこれはなかなかのものでした。今は清掃会社などに依頼し、初入学、初出勤と同時にそういうことをやらされる所はなくなってきました。

「勉強しないとお前もいまに、ああいう人たちみたいになってしまうよ」と清掃万般の仕事をやっている人のそばで、子供を叱咤激励する母親がいるそうですが、こういう情ない母親がふえたとすれば、共同便所掃除のつらさを知らないできてしまった鈍感さによるもののような気がし、便所掃除は手離すべきではなかったとおもうのです。人の一番いやがる仕事を、きちんと果たしてくれている職種の人がいればこそ、伝染病もはびこらず、みんななんとか生きていけるのに・・・。

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詩にもどりましょう。詩の全体は手仕事の順番を追って、無駄なく見たまま、やったままを、一つ一つ自分で確かめるような形で書かれています。「です、ます調」で書いたのも一区切りずつの労働のリズムを伝えて、よく生きています。けれどこの詩が、

社会悪をふきとる思いでカいっぱいふきます

あるいは、

クレゾール液が 糞壺の中から七色の光で照らします

のところで終わっていたとしたら、読んでまもなく忘れてしまい、今に至るまでこんなに強烈に覚えてはいないでしょう。詩ではないと思ったかもしれません。そうです、「便所掃除」を詩たらしめたものは終わりの四行なのです。ここへきて飛躍的にバッと別の次元へ飛びたっています。飛行機にたとえていうと、一つ一つの労働描写のつみかさねは、じりじり滑走路をすべっている状態で、だんだん速度をはやめ、或るとき、ふわつと離陸した瞬間が終わりの四行なのです。

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いつも思うのですが、言葉が離陸の瞬間を持っていないものは、詩とはいえません。じりじりと滑走路をすべっただけでおしまい、という詩でない詩が、この世にはなんと多いのでしょう。

第一行で、すでに中空高く舞いあがり、行方もしれずなりにけり、という本格派もあり今まであげてきた詩からも、いくつも探しだせるでしょう。詩歌を志す人は、大半の努力を第一行で舞いあがることに注いでいるようにも思われるのです。そこが散文とちがうところで、重装備でじりじり地を這い、登山するのが散文なら、地を蹴り宙を飛行するのが詩ともいえます。「便所掃除」は散文的な言葉のつみかさねからおしまいに、もののみごとに飛翔し、誰の目にもあきらかな離陸をやってのけているので、良い参考になります。

便所を美しくする娘は
美しい子供をうむ といった母を思い出します
僕は男です
美しい妻に会えるかも知れません

大きなひろがりをもった男らしい詠唱(アリア)です。

けれどこの終連がどんなによいからといって、もしこれだけだったとしたら、感銘はうすいでしょう。前半の物に即した描写がしっかりしていたからこそ、この部分が生きたのです。

そして、汚いものでも十分詩になり、詩語という特別のものは何もなく、ふだんの言葉が昇格するだけで、詩の美しさは結局それを書いた人間が上等かどうかが、極秘の鍵をにぎつているらしい……そんなこともいろいろ教えられます。

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年譜によれば、小学校高等科卒の学歴で、若い時は兵隊として中国、フィリッピン、サイゴン、ニューギニアを転戦し、復員してきてすぐ国鉄に就職しています。

作者はすでになくなりましたが、青年のなんともいえない初々しい姿は、この詩の中にいつまでもとどまっているようです。

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(どちらも読んでよかった〜〜)ノボ

Category: いきいきマイウェイ, キラっと輝くものやこと, ほっこりすること, ユニーク人生

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