からだは道具なり

[ 0 ] 2023年11月1日

70歳ともなり、死というものが身近になってきた感じのこの頃です。

そんな中、なるほどこんな考え方もあるな〜と少し癒やされた文章があります。

中沢新一著『野性の科学』には、深沢七郎文学について40ページも書かれています。

同郷ということもありますが、中沢新一さんの思想に多大の影響を与えていることは間違いありません。

さて、人の死というのは誰一人免れえない平等の運命ではあります。

現世との別れ、親しき人との別れは実に不安で、寂しく悲しいものであります。
 
ところが、中沢さんの書く深沢七郎の身体論を読んだら少し気が楽になってきました。

(北斎漫画より)

中沢新一『野性の科学』

「第7章 二つの深沢七郎論」より

 つまり人間の体には、上下もなければ優劣もなく、言葉と放屁の間にすら上下関係はない。

 そうなると女の人が出産するのも、屁をするのとそう変わらないじゃないかということになります。

 たいへんにふてぶてしい言い方に聞こえるようですが、実際にはそうではない。

 人間の体を庶民がどう捉えているかが背景になっている。

 身体は庶民にとってこの世に存在しているための、いわば道具のようなものであって、その道具が古くなったら置いて、自分はあの世へ行くという感覚が浸透していた。

 そして、道具だとすれば、言葉も排泄も、観念的なものも物質的なものも、何の価値の隔たりもないんだという考え方がよく表現されているように思います。

 実際、江戸時代の戯作文学を読んでも、こういう話題はいっぱい出てくる。

 この世で生きるには道具が必要で、ちょうどいいのが「身体」という道具。

 農民のクワのごとく、大工のカンナのごとく、料理人の包丁のごとく、生きるために身体と道具は一心同体にちかいものです。

 それだけに道具(=身体)を大事にいたわり手入れするのは当たり前のことです。

 とはいえ、いつかは道具(=身体)も摩耗して使えなくなる日がやってきます。

 ご臨終の時はこんな感じでしょうか?

 「道具が古くなって役に立たなくなったもんですから、ここはひとつ終わりにして、別な世界へ旅立ちますんで。それじゃサイナラ!」

 身体を道具と見なすことによって、「死」というものをあまり高尚に考えすぎない。

 これも「生きる知恵」かな〜、いや「人生の本質」かな、なんて思いました。

 自分にも必ずやってくることだし、気楽に待ち受けないとノイローゼになってしまいますよ。

・・・・・・・・

 「身体は道具」という論をもう少し補足する(少し臭い?)文章を付け加えます。

 「放屁」というのは深沢七郎文学にとって非常に重要なアイテムで、人間が子どもを生むというのは屁をひるようなものだ、という言い方が何度も出てくる。

 当時からご婦人方が眉をひそめていましたが、深沢七郎が、これを庶民の定義としているのは、庶民は、肉体に優劣や価値の上下をつけないから。

 上品な世界では、人間の上半身が行う言葉は上品なものです。

 なぜなら言葉は実態物がないものでも、「コップ」と口にすればコップが相手の頭の中にうかんでくるわけですから、現実の世界や肉体を媒介しないでも観念の世界で何かを伝えることができる。

 しかし深沢七郎はこう考える。

 いや、言葉が出てくる口は、物を食う口じゃないか、口の中でぐちゃぐちゃと食べ物を破壊して、自分の体の中に入れるじゃないか。

 ということは、口と肛門は、一つながりで同じじゃないかと深沢七郎は言いたいのです。

 この身体感覚というのが庶民のもので、つまり上半身と下半身の間に区別をまったくつけないということ。

 ですから、口で喋るのとおならをするのは同じであるという風に、この船頭さんは考えているわけですね。

 上の口から歌や声を出すのと、肛門からおならを出すのは、まったく同じという感覚がある。

 かねてより私は、「人間」というものは四つの層が重なり合った存在と考えていました。

  生き物>人間>社会人>会社人

 現代の様々な問題は、ほんとうはすべて重なり合うべき各層がばらばらに離れてしまっていることに原因があると思います。

 深沢七郎の感じ方、考え方を知るにつけ、彼はこのうち「生き物」と「人間」の重なり合いのところを深く直感しているのだな〜と感じてきました。

 そのキーワードが「身体」「道具」というものであり、私たちが取り戻すべき「野性」というものの具体的中身の一つであるように思われます。

 頭でっかちとなりすぎた「現代人の病」の処方箋にも感じられます。

 最後に中沢新一さんは深沢七郎についてこう述べています。

 深沢七郎さんの文学は他の文学とは違います。とても偉大な文学なのです。しかしとは言っても、おならのようなことばかり書いているのですから、偉大にして下品な文学と呼ぶことができるでしょう。それは庶民は下品にして偉大な存在であり、そういう世界を今日まで、この甲州の中に、生き続けさせたということなのだろうと思います。

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