居心地の良いサイズ

[ 0 ] 2012年10月4日

人には居心地の良いサイズがあるようです。それは「集団のサイズ」にもあてはまるようです。昔と今、私たちの暮らす集団のサイズは大きく変わりました。これからはどれくらいが居心地よいサイズなのでしょう。

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「田舎にでも引っ込むか」「実家に戻ろうか」と、無意識かもしれないが、私たちは心に避難所を持っています。あるいは持っていました。

その避難所は、貧しくても心が安らぐ場所でした。心の通じる少数の人が居る場所だったから。

その「居心地のよい場所」が失われてきたことが、社会に対する閉塞感や絶望の気分を増長させているのかもしれません。

なぜ失われつつあるのか、それは集団のサイズが変わってきたからだ。と内山節(たかし)さんは述べています。

ということは、意識的に「集団のサイズ」を考え、再構築することで、私たちは「居心地」を取りもどすことができる、ということではないでしょうか。

f:id:kawasimanobuo:20120307120146j:image:medium:right「戦争という仕事」より

居心地

 「今日の社会では、個人の差異化がすすんでいる」。私たちはこんな批評を目にすることがある。一人ひとりが自分らしさや個性を大事にし、他人とは違う自分にこだわる、という意味である。

 このことが多品種少量生産を促し、新しい消費型の人間社会をつくっていったと論じたのは、現代フランスの哲学者、ボードリヤールであった。

 だが私は、本当にそうなのだろうかと思っている。むしろ人々は、個人の差異化ではなく、自分が多数派ではない少数者のグループに属していることを確認したいのではないだろうか。

 たとえば稀少性の高い商品を購入する場合もそうだろう。それを身につけて得る感覚は、「世界でたった一人の私になった」ではなく、「そういうものを身につけている少数者の一員になった」という満足感である。

 「私は真実を知っている少数者の一員である」という気持ちほど、自分を満足させるものはなかったりもする。だから、たとえば小さな宗教グループは強い結束力をつくりだす。

 「自分は仕事のできる少数者の側にいる」とか、「自分は会社にとらわれない、自由な発想をする少数者のなかにいる」という感覚は、その人の企業のなかでの精神的居心地をよくする。

 ところで、多数派であることよりも少数派であるほうが精神的安定を得られるというこの感覚は、私には、昔からの人間の心情の変形したかたちなのではないか、という気がする。

 かつて人間たちは、比較的小さなそれぞれの世界のなかで生きていた。農村共同体や職人グループ、各藩の武士団、…。その小さな世界のなかに、人々は自分の安心できる世界をみつけだした。

その小さな世界には、自分の一生に必要なすべての要素が存在していた。たとえば農山村の共同体をみれば、そこには三つの性格が内在していた。人間の共同体、自然と人間の共同体、生と死の共同体という性格である。

 そして、この世界と結ばれることによって人々は、日々の生活や労働も、神事や仏事も、祭りや遊びも、生きることや死を受け入れることの意味も獲得することができた。共同体という小さな共有された時空のなかに、すべてのものがつまっていたのである。

 だから「村に帰る」ことは、たとえ若い頃にいだいた希望を捨てることではあっても、単なる挫折ではなかった。すべてが解決するであろう世界に帰還することでもあったのである。職人グループや武士団も同じことであろう。彼らにとっても、その小さな世界のなかに人生のすべてがあった。

 冒険とは、その安心できる世界を捨てて、荒海に乗りだすことであった。そして、その冒険に価値をみいだせなくなったとき、人々は元々の自分の世界に帰っていった。

 ある意味では、高度成長期の社会では、多くの人々は多数派になることをめざしていた。誰もが小さな世界を捨て、多数派の一員になろうとした。ところがたちまち、この平準化された世界は居心地が悪い、と感じるようになった。

 こうして多くの人々が多数派の世界からの離脱を試みるようになる。帰るべき小さな世界を探すようになったのである。

 だが今日では、本当の農村共同体も、かつてのような職人グループも、ほとんど残っていない。帰るべき世界はなくなっていたのである。そのことが、今日的な少数者の世界を人々に探させる。

 ときに、稀少な商品を身につけている少数者の一員、という擬似的なものをもふくめて。そして、多数派に裏切られることは我慢できても、自分が信じていたい少数者の世界から裏切られたときは誰もが深く傷つくという現象を伴いながら。

 私はこの基層にある心情が労働の世界でも、多数派からの離脱をめざす動きを生みだしていると思っている。サラリーマン的世界が安心感のある世界ではなくなったとき、さまざまな人々が、サラリーマンという多数派の世界からの離脱を考えはじめたのである。

 働くことと生き方とが一致できるような、納得できる小さな世界を探しながら、である。あるいは、そういうものを目指している現在の少数者の一員になろうとしている。

 ここにもまた、現代の労働をめぐる動きを成立させている古層的な精神がある。

 

投稿者:ノボ村長

Category: キラっと輝くものやこと, 伝えたいこと

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