「江戸めしのスゝメ」より

[ 0 ] 2012年9月18日

今日は大変な寒波!実家の水道も凍って、一人暮らしの米寿の父のところへ、まるで3.11の時のようにポリタンクで水運びです。。。そんな今日と「江戸めし」に何の関係があるの?

著者の永山久夫さんは、津波にあった福島県双葉郡楢葉町生まれの方です。

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まずはこの本の後書きをお読みください。

おわりに
「節電」から「江戸めし」の時代へ

 思わぬところで「江戸めし」に出会った。
2011年3月11日、私は東京・江東区のお台場近くにある大きな病院にいた。入院中の友人を見舞い、帰ろうと出口に向かっていたとき、突然、ビルの床が音を立てて波打ち、壁が大きく揺れ始めた。

 悲鳴があがり、皆が床に座り込んだ。
動けない。歩こうとしても、体の重心が抜けてしまった感じで足の方向が定まらない。めまいがして、急いでベンチにしがみついた。院内放送が巨大地震の発生を告げ、ベンチに座って外に出ないようにと繰り返す。アナウンスの声は落ち着いていた。職員たちが走り回り、危険だから外に出ないようにと何度も叫ぶ。東側の窓から外を見ていた人たちが悲鳴をあげた。見ると、ちょっと離れたところから黒煙がのぼっていた。

 やがて揺れは収まった。病院のアナウンスは余震の危険があるので病院から出るのを自重するように告げると、続けてこう言った。

 「皆さま、お疲れさまでした。もうすぐ炊き出しがあります」

 看護師さんに聞くと、職員全員が一丸となってご飯を炊いているのだという。

 小一時間ほどして、院内にいた全員にラップで包まれたおにぎり2個と沢庵2切れが配られた。円形だったり三角形だったり、形はまちまちだが、おにぎりは温かかった。両手で受け取ったそのぬくもりに、思わずじんときた。

 江戸時代でも、火事の後には町内総出でめしを炊き、焼け出された人や消火活動を手伝った人たちに沢庵を添えておにぎりを配ったという。おにぎりの旨さ。沢庵の甘さ。炊き出しという、いってみれば非常時の江戸めしは人情も味つけになっていて美味であることを知った。
            
 おにぎりは1個だけ頂戴し、もう1個は大事に残しておいた。これから練馬区の自宅まで帰らなければならないのだ。

 夕方になって外に出た。運よくタクシーを拾えたが、大渋滞で遅々として進まない。メーターだけがどんどん上がる。車内のラジオで地下鉄の大江戸線が動いていると聞き、山手線の浜松町駅で下りた。が、これが大失敗。駅構内は座り込んだ大群衆で埋めつくされていた。人のあいだをすり抜けて隣接する地下鉄の大門駅に向かったものの、ここも満員で改札口に行くなど無理そうだった。だいたいが運転再開の見通しすら立っていない。

 電車をあきらめ、もう一度タクシーを拾おうと外へ出る。すると、老婦人が道端の石の上に震えながら座っていた。目が合う。私はとっさに襟巻きを渡すと、ポケットから炊き出しのおにぎりを出してそれも差し出した。女性は驚いたように私を見上げると、おにぎりを受け取った。

 タクシーで帰るという決断は無茶だった。のろのろと私の横を通過するタクシーはすべて「実車」。空車など1台もやってこない。仕方がない。歩こうと決心した。しかし私は現在79歳だ。自宅のある豊島園までざっと20km、体力はもつのだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、ともかく歩き始めた。

 地震と津波による原発事故によって電力不足が発生した。猛暑の夏が終わり政府の電力使用制限令は解除されたが、日本が長期的な節電の時代に突入したことに変わりはない。

 大歓迎である。いままでは電気のオーバー・ユーズ、明るすぎた。

 昭和30年代前半の日本はちょうど現在と同じくらいの明るさで、落ち着きがあった。家庭は60Wの裸電球だったが、暗がりが安らぎを生んだし、なにより人の顔が明るく、お隣同士がよく声をかけ合っていた。

 ところが、高度経済成長と共に日本中どこもかしこもが明るくなった。半世紀前の東京オリンピックが境目だろう。地下鉄やショッピングモールはエスカレーターが当たり前。
生活を「便利」にする動力としてエネルギーが過度に消費され、原発が必要となった。

 原発の問題を考えれば、今後は電力を考えなしに消費することばできない。どうせ「節電社会」になるのなら、前向きにとらえたらどうだろう。たとえば「節電」ではなく「江戸電」と考えてみる。

 江戸めしの魅力の一つはその美しさにある。彩りを見て楽しみ、食べて味わいを深くする。ピカピカの蛍光灯の下では、江戸めしの本当の昧が実感できない。もともとロウソクや行灯の明かりの下で食べることを前提に作られた料理だからだ。谷崎潤一郎の 『陰翳礼讃』 にあるように、ほの暗さは食膳に載った料理の見映えを考えさせてくれる。全部が見えては面白みがない。陰の部分を想像しながら味わうのが江戸流である。

 震災後の新しい価値観の一つとして江戸文化を見つめ直したい。ピカピカの明るい時代になってからわずか50年。ほの暗い明かりのもとで過ごした時代のほうがはるかに長いのだ。もしかしたら、日本はエコ文化大国として新しい魅力を放てるかもしれない。

 さて大門駅を出発して人混みのなかを歩いていると、東京駅の前へ出た。さらに大手町、九段下と進み、飯田橋のガードをくぐり抜けて新目白通りへ。いつの間にか人通りが途切れて一人になっていた。徐々に足の筋肉が痛くなる。

 中野区の江古田に差しかかったあたりで空腹を感じ、ポケットに手を入れた。が、残しておいたはずのおにぎりがない。大門駅の前で老婦人にあげたのを忘れていた。思わず苦笑する。一瞬、後悔したが、心地よい後悔だった。ポケットの中で何かが指先に触れる。
取り出して街灯に透かしてみると、ひと切れの沢庵だった。おにぎりを包んだラップから飛び出していたのだ。おばあちゃん、ごめん。心のなかで老婦人に謝った。

 江古田から豊島園までは歩いて1時間。沢庵をポリポリと噛みながら進んだ。練馬区に入ったあたりで流れ星を見た。それも異様なほど乱れ飛ぶ。胸騒ぎがした。やっとのことで自宅にたどり着いたのは12日の午前2時半だった。さすがに疲労困憊。妻が泣いて喜んでくれた。が、落ち着いたのも束の間、テレビのニュースを見で、生まれ故郷の福島県双葉郡楢葉町が地震と津波で破壊されたことを知った。

 茫然自失。また東北か、と思った。江戸時代から東北は津波や地震の被害に遭ってきた。
洪水、山崩れ、そして冷害による凶作。幕末には戦争まであって多数の死者が出ている。

 しかし次の瞬間、考え直した。東北の人々は常に困難に負けなかった。村が壊れればもっと住みよい村を作り、不幸を乗り越えて皆で笑った。米を作り、雑穀を作り、イモやダイコンを作って食べてきた。何が起こつても屈しないエネルギーが腹の中にどっしりと蓄えられているのだ。

 ことしや世がようて
 穂に穂が咲いて
 殿も百姓もうれしかろ

 江戸時代に行われた盆踊りで庶民が唄った歌だ。豊年満作の喜びは藩主も農民も同じ。
こうした祝いの席に並ぶご馳走は、刺身や豆腐料理、ちらし鮨、蒲焼き、玉子焼きなど、参勤交代の殿様が伝えた「江戸めし」であった。

2011年9月30日

こんな寒い日には「フーフー」いって食べたい「江戸めし」リバイバル写真です。(本書より抜粋、クリックで拡大できます)

さあ~早く家に帰ろう。そして(自分で作ろう。。。)

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投稿者:ノボ村長

Category: キラっと輝くものやこと, 大切なこと

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