ゴリの「レトロの住む家」

[ 2 ] 2011年2月25日

gori.JPGちょり~す、ゴリで~す。

「トトロの住む家」と街づくりに刺激されたよ。なにせおいらにとって手塚治虫は神様で宮崎駿は仏様みたいな存在だからね。で、「トトロの住む家」ってのは、その宮崎駿さんが東京の山の手に今も残るレトロな「懐かしい家」を撮った写真と、彼のスケッチで編集した画文集なんだ。味があるぜ。
 

実はおいらの実家も、ここに入れておかしくないくらい懐かしきレトロ家なんですが、この本を読んでつくづく思ったんだ。おいらが育ったこの家、どっかに思い出残しておきたいな~と。自分のことでちょっとバツが悪いけど、みんなも残したい思い出はきっとあると思うんだよ。その先鞭を付けるって感じかな。みんなもCome here!

さて、2年程前に撮った実家の写真があります。トトロのとはかなりちがうけど、家の裏には何百年経ってるかわからん大きな「かやの木」があって「いぐね」のなごりなんだろうな。

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この家ももともとは古い家でね、明治の頃かな、陸羽東線がすぐ近くを通るというので、ほら、機関車の煙突から火の粉が飛ぶので、茅葺きから瓦屋根になったらしい。

この玄関が、プチリフォームするというので、寂しいので撮った写真なんだ。思い出がいろいろあるので・・   ゴリの目にも涙・・・


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おいらのご先祖は岩出山伊達家の家臣でね、伊達政宗が米沢から岩出山に移ったときに一緒に来たらしい。戊辰戦争以後一族の一部は北海道に開拓で渡ったらしく、屋敷の広大さとは裏腹にずっと大変な生活であったらしい。

これはおいらの大叔父が昭和39年に子供の頃を思い出しながら描いた明治の頃の家の敷地図だ。掛け軸にしてもいいようだぜ。大叔父も絵を描くのが好きだったんだろうな。

実はこの記事を書こうと思ったのもこの地図があったからなんだ。この頃の大叔父と近い年齢になったせいかもしれない。大叔父はなぜこの地図を描いたんだろう? 何を感じていたんだろう? 単なる家への郷愁だけでなく、なんかその時代そのものを再発見しようとしていたんではないかな~とゴリ頭は思うのでありんす。びっくりするのは敷地をはさんで堀が2本と内側に1本、合計3本もあるんだけど、ずっと遠くから隧道を掘って引いたらしいよ。

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次の写真はわが家の裏山が見えてるヤツだ。城山と一体の山なんだが、手入れが大変で・・お袋は昔から俺に言ってたよ。「農林業だけはするな」って。この家も昔は、もっと風情があったはずだが、やっぱり、少しずつ手が入って、面白くない家になってしまったな。

でもこの歳になると、お袋の説教話とは逆に、農業とか山仕事とかにあこがれが強くなってきてしまうよ。なんとか自然とか歴史とかを活かして活性化させるアイデアはないもんかな~。俺も何かできることから始めてみたいな~と思ってるんだ。

 

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我が実家とは関係ない写真なんだが、家の近くで撮ったヤツも見せるよ。
写真の武将はは岩出山の伊達さんの長男です。今は史跡で観光名所になっている有備館に住んでたんだ、おれが小さかったときは。家がすぐ近くだったので、たまに遊んでくれたっけ。
 

 

 

 

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これもおまけ。女の子は、毎年この町で開かれる政宗公まつりに参加するためコスプレした東京からのギャルだね。刀狩りでもしたのかよ!おまえは。


これからもゴリのレトロシリーズは続きまっせ。楽しみに待っててね。

投稿者:ゴリランジェロ

エリア:キラこと

Category: キラっと輝くものやこと, 伝えたいこと, 大切なこと, 美しいこと

Comments (2)

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  1. 川嶋信雄 より:

    それにしても大叔父さんの絵はうまいですね~味がある!
    日本むかし話の挿絵にしたらぴったりそう。ゴリ棟梁は隔世遺伝したんだな。

  2. ゴリ より:

    後藤氏が送ってくれたメールの文章が、心に引っかかりました。明治つながりや東北本線つながりでココに紹介させてもらいます。(許可とってないけど許してね!)
                  仙台プラザホテルが閉館
     昨日は地元の仙台プラザホテルが3月の25日をもって閉館するというニュースが飛び交いました。仙台プラザホテルを調べてみると、1888年(明治21年)に駅前で開業した陸奥ホテルが前身です。私の記憶が正しいければこの時代は仙台が市制施行し東北本線が開業した時期と符合すると考えられます。それを現代に置き換えれば、東北新幹線が開業し仙台が政令都市になった時代を思い返すと当時の雰囲気がイメージできると思います。ただし当社のスタッフは若いので、東北新幹線の開業も政令都市施行も昔のことになってしまうとイメージが掴めないかも知れません。
     明治の20年代に戻れば、当時は文明開化と富国強兵を推進し、天皇中心の立憲君主の中央集権の国作りに邁進していまいした。仙台プラザの前身の陸奥ホテルはそのような時代の後押しを受けて、仙台を名実ともに東北の都にする為の気概を持って誕生をし、その大きな役割を果たしたとも言えます。新聞報道によると仙台プラザホテルは仙台では先駆けてのシティーホテルでありましたが、ビジネスホテルの低額の宿泊料金で後塵を拝し、結婚式ではブライダル専門の施設の追随を受けました。その意味では時代のニーズに対応出来ない状況になったのかも知れません。仙台ホテルや東急ホテル(旧名)と同じ末路だと思います。
     私の兄や知人も仙台プラザホテルで挙式をあげましたが、その思い出のホテルは間もなく消えてしまいます。「実物は消えても心には残る」と言えば、それも一理はあるでしょうが、「経済戦争により敗者のゲームセット」でことが進む、この社会は正しいのだろうかと疑問を感じます。地方の時代・地方主権という声が広がっていますが、仙台においては明治の草分け的存在の施設が消えようとしています。私達は今日・明日のことで毎日を過ごしていますので、思うことは出来ても残念ながら「仙台プラザ」を守ろうという気分にはなれません。それは何故なのでしょうか。ヨーロッパなどの町並みをBSなどで見ると、実に見事に昔の町並みや佇まいを残しています。彼らの精神には「守ることが進化」という観念があるのだろうと思います。その点、日本は過去を払拭した新さに文明を感じる体質が根強いように思います。とすれば、仙台プラザの閉館もその範囲では致し方ないのかもしれません。
                         後藤    2011年3月8日

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