山の優劣

[ 0 ] 2019年11月15日

Mt_FUNAGATA

東京のある大学に入ったが一年もしないうちにやめてしまった。その頃若気の至りで小難しい本にかぶれ不眠症気味だった私は、東京という大都会になじめず孤独感にさいなまれていた。そのせいか、朝から晩まで数年前から病みつきとなっていた「山登り」のことばかりを考えていた。

 

類は類を呼ぶで、東京に進学した親しい同級生たちもみんな山好きだった。寂しさのあまり私は彼らの(貧乏)アパートへしょっちゅう押しかけていたが、会えば必ず山の話ばっかりだった。彼らの何人かはそれぞれの大学の山部とかワンゲルに入ったが、私は歩くのが遅いので集団行動が嫌いだった。

 

私と私の親友たちがともに崇拝し愛していた山、それは「船形山」だった。裾野が広くて、とても奥深く地味な山だ。そのせいで本格的に山登りをする人以外はあまり近寄らず、豊かなブナ林は東北の山でも有数のものだった。船形山系の野性的な山々の重なりは実にどっしりとし、手つかずの太古の自然を感じさせる風景にとても癒された。

 

夏休みに帰郷したとき、私の母方の祖母が脳梗塞で入院した。祖母が住む母の実家は商売で忙しく、私が夜の付き添いを一週間ほど頼まれた。その頃の病院は今とは違う。重病で入院した患者には家族か専門の付添婦を雇って、ベッドの下に布団を敷いて一緒に泊まるのが当たり前だった。

 

二人部屋のもう一方には当時三十代後半だろうか?とても明るく微笑む一見健康そうな女性が入院していた。この方が「多発性硬化症」という難病で、手足が全く動かせない症状であったとは最初まったく気づけなかった。彼女はそんな大変な状態なのに、ほほえみながらいつも私をからかって冗談を言うのだった。「ノブオちゃん、あんたあの看護婦の○○さん好きなんでしょう。すぐわかるよ〜」とか。それが当たっていたのでなおさら照れてしまった。

 

夜になると、とても体格が立派で、おまけに頭もりっぱなテカリ具合の男性が毎晩来て泊まっていった。親しくなるにつれ、彼がカトリックの神父さんで保育園を経営している園長さんでもあることを知った。そして、病床の女性がその方の奥さんであることも。彼女はその保育園の保母さんでもあったらしい。

 

隣のベッドの奥さん(これから「奥さん」と言おう)と、旦那である神父さんと一緒に話をすることがだんだん楽しくなってきた。ある日、私が撮影した船形山のカラースライドを映写機で病室の壁に映して見せた。私は船形山にまつわるエピソードのあれこれを自慢げに話した。たとえば夜に一人で登った話とか、奥深い谷間の沢に立つ瀟洒な山小屋で雨やどりした夜のこととか。そして何よりも船形山頂上からの重厚な景観、天国のような紅葉の風景とかを自慢げに。二人ともとても感動してくれたようで嬉しかった。

 

お返しのつもりだったのだろう。次の日かその次の日か、今度は神父さんがアルバムとスライドを持ってきて見せてくれた。それはなんと!「カナディアンロッキ−」の山々で、彼が実際に登って撮影した写真だった。船形山とは比較にならないそのスケール、華やかさ・・・実は神父さんは、カナダに長年留学していたのだった。神父さんは別に対抗意識で持ってきたわけではない。だが私は卑屈にも、船形山が田舎のとても小さな山のように思えて恥ずかしくなってしまった・・・

 

そんな卑屈さは私にはずっと残っていた。潜在意識の中に、外国の高山や日本アルプスのほうが田舎の低山よりも価値が高いというような偏見があったのだ。しかし歳をとるにしたがって、そのような偏見から徐々に抜け出せてきた自分に気づく。そして今ではあの時船形山にとても申しわけない思いを抱いてしまったことを恥じている。まるで「ほっぺの赤い垢抜けなくて純情な田舎娘」を恥ずかしがって「綺麗で洗練された都会娘」に惹かれてしまったような・・・

 

この年の秋のことだった。私は紅葉の船形山に一人登り感動し、東京から去ることに決めた。家の事情もいろいろあったのだが。あのときから四十年以上も過ぎた。その後社会に出て荒波に揉まれ続け、生来の股関節障害による症状も出てきたために船形山とはすっかりご無沙汰してしまった。人づてに聞けば、私が登っていた頃から加速したのだが、今では林道が縦横無尽に走り、ブナも多くが伐採され昔の面影はないという。神父さんとはその後二十年以上経ってから再会したが、これも人づてに聞いたのだが、再婚したとのことだった。

 

今、目を閉じると思い出すのはふたつだ。船形山の、あのめくるめくような紅葉。そして、ベッドに寝たままいたづらっぽく私に微笑んでいた、神父の奥さんの、あの明るい表情だ。

 

by ノボ村長

Category: キラっと輝くものやこと, ほっこりすること

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