私のお彼岸考
まもなく春彼岸の入りです。葬儀やお墓について、考えは人それぞれでしょうが、私個人はとても愛おしいものだと思っています。数年前のお彼岸、孫にこんな話をしてあげました。
「過去の歴史や人のことを私たちは学校で勉強するし、とても大事なことと思っている。それは過去があって今があり、よりよい未来はその延長上にあることを、(たぶん)人類だけが知っているからだ。
どんな人の人生も一冊の本であり物語である。親しい人の死は、私たち一人一人にとって一番身近で大切な一冊だけの本が出版されたということだ。
私には、墓地は図書館、墓は本の背表紙と思える。墓参りのつど本を開き、故人を偲び対話する。故人を知る人だけにしか読むことのできない貴重な本である。
あの世があるかとか、科学的にどうだとかはあまり関係ないと思う。弔いは言葉が生まれる前から存在する人類の本能であると思う。花束といっしょに埋葬されたネアンデルタール人の遺跡も見つかっている。
弔いがなぜ続いてきたかといえば、過去の人の本や歴史を知ろうとするのと同じだと思う。目に見えないものの刺激によって、自分自身が(自分の想像力によって)変わるきっかけになるからだと思う。ということは、弔いとは、実は自分自身のことに他ならないのではないか。
言葉には必ず出発点がある。しかしその後際限なく自己増殖と変異を繰り返し、ときに原点を忘れさせてしまうことがある。言葉だけで考えていくと堂々巡りになってしまうことがある。
まずは、なぜこの風習があるのか、続いてきたのかを考えたり、想像したり、調べたりするのが良いと思う。その道中、思いがけない宝物を見つけるかもしれない。
そうそう、ついでに本を読むということについて私の考えを話しておくよ。本を読むのは直接的な知識を得ることだけが目的ではない。古今東西の(時空的に会えない)人たちと友達になるためだ。その人が生きていた時代や空間をともに経験し、その人と話し合うことにある。その人なら今をどう見るかとかね」
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