自転車で鮮魚を”振り売り”
昭和40年代後半まで自転車で魚の行商をしている方々がいました。
何よりも、市場で行商さんたち自らの目で選んだ鮮魚なので、新鮮で安心、来れば必ず母親は買っていたものでした。このような商売はもう廃れて、可能性もないものと思っていたら、今朝の朝日新聞でこの記事です。
もし「すべての産業はサービス業である」と定義したら、今はなき昔流の商売の仕方こそ価値が高いのではないでしょうか。
そういえば以前この「キラこと」で紹介した「出張タイヤ交換」も同じ発想でした。
人の行く裏に道あり、花の山
投稿者:ノボ村長 エリア:キラこと
Category: キラっと輝くものやこと, 工夫したこと, 思いがけないこと
商売とは固定客の創造
という言葉が頭から離れません。
三陸おさかな倶楽部では、それを実践していますね。
時流に捕らわれ過ぎることなく、お客様が求めていることをやった結果がこうだったというだけで、自然なことだと思います。
ネット上のサービスも結局、原点はおんなじではないでしょうか?
人が求めるものは、どんなに時代が変わっても、便利になっても変わらない。
とにかく、情報が多く、便利すぎて、何が大切か見えなくなっています。
そんな中でこのニュースを見ると、大事なことを忘れるな!!
と叫んでいるように感じます。
ふと思ったんですが、訪問販売も行商の一形態といえるかもしれませんね。
でも、どこが違うんだろう?
訪問販売というと、会社、スマート、商品というイメージだけど、
行商というと、個人、レトロ、温かい、お客様中心というイメージですよね。
そこに何か独創のヒントがありそうですね。
三陸おさかな倶楽部…というネーミングがかなりイケてるね!
何度も読んで、ここ数日考えていたんですけれど、たぶん。
行商は販売する人の人間性や、感性、個性をとても大事にして、尊重してるのではないでしょうか?
それに対して、訪問販売は、システマティックで、画一的な商品に頼る。
物事って、「ゆらぎ」がないと魅力を感じないと思うんですよね。
当たり前ですけれど、必ず成功するとわかっている物語は面白くないですよね?
どうなるかわからない、ハラハラドキドキが共感を生むのであって、不確実性が大切だと考えます。
でも、ビジネスの世界では、それは許されない。
確実、スマート、成長。
でも、世の中はそうは出来ていないと思うのです。
単一的で、個性が無ければ、成功も無いと思うのです。
成長し続けることは、善ではないです。
成長し、廃れていく事が自然で、実はよいことだと思うのです。
「アポトーシス」という言葉をご存知でしょうか?
プログラムに従って、細胞が積極的に死ぬことなのですが、
胎児は、このアポトーシスによって体が形作られるのだそうです。
例えば、指は最初、河童の手のように水かきがあって、アポトーシスによって指の間の細胞が死んでいき、最後は指になる。
一見非効率に見えるこの現象こそが、よいと生命が選択したことで、生き物は長い時間の中で、自然にそれを実行しているのだと思うのです。
死は悪いことではなくて、死があるから生があるという考え。
だから、行商に温かみを感じるのは揺らぎや、予想外の楽しみを期待し、時には失敗があり、時には思いがけない驚きや発見もあるから。
すべては、人と人とのやり取りから生まれる。そこが魅力じゃないかなぁ。
これからのビジネスは、原点に戻るかもしれません。
人間として、自分自身としての行き方。
大切だと教えられる記事でした。
感謝。感謝。感謝。
深い内容で、実に考えさせられます。
私たち自身が成功とか、効率教とか、過剰なあこがれとか、そういったもので縛られており「人間」という言葉がどこかの棚に置きっぱなしにしてしまっているのかなと感じています。「人間」っていったら「あいまいさ」とか「あたたかさ」とか必ず必要だよね。
その通りだと思います。
効率が行き過ぎると、女性は、「人口を増やすマシーンで良い」とか訳のわからない所に行くかもしれません。
多様性や、曖昧性、忘れる、いい加減、一見すると悪いイメージの言葉ですが、これが適度にないと発展性もない。
人間の脳は、効率よく忘れるように出来ていると聞いたこともあります。
要はバランスの問題だと思いますが、現在はそのバランスが崩れていると思います。
それも、偏って。
みんなで働けばもっと良い社会になると思うんですけれどねぇ。
仕事がないといっている人たちも、自分たちで仕事を作るとか。
コンなことを言っていると反発も出てきそうですが、歓迎です。
仕事は、与えられるものじゃないぞ!!作るものだぞ!!