あたまは悪くなくてはいけない。
私はじめ多くのブンカケイ頭の方々に希望を感じさせる言葉であります。
すぐれた科学者であり文学者であった寺田寅彦の随筆から引用します。
寺田寅彦は物理学だけでなく海洋学や地震学、音響学にいたるまで幅広い分野で先進的な業績を残された科学者です。
「災害は忘れた頃にやってくる」と書いたことでも有名です。
さらに科学者とは正反対?の希有の文学者でもあり、漱石山房に集う一人でした。
漱石の「三四郎」では「野々宮君」、「猫」では「寒月君」のモデルとされている人物です。
最初の妻との実話をもとにした彼の短編「団栗」(どんぐり)は胸がつまる珠玉の名品です。
最近買った『日本の作家名表現辞典』に彼の(私にとって実に嬉しい?)随筆が紹介されていたので孫引きですが引用いたします。
寺田寅彦 『科学者とあたま』より
科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。
偉大なる迂愚者(おろかもの)の頭の悪い能率の悪い仕事の歴史である。
(略)
頭のいい、ことに年少気鋭の科学者が、科学者としては立派な科学者でも、時として陥る一つの錯覚がある。
それは、科学が人間の智恵のすぺてであるかのように考えることである。
科学は孔子のいわゆる「格物(かくぶつ)」 の学であって「致知(ちち)」 の一部に過ぎない。
しかるに、現在の科学の国土はいまだウパニシャドや老子やソクラテスの世界との通路を一筋でももっていない。
芭蕉や広重の世界にも手を出す手がかりをもっていない。
そういう別の世界の存在はしかし人間の事実である。
理屈ではない。
そういう事実を無視して、科学ばかりが学のように思い誤り思いあがるのは、その人が科学者であるには妨げないとしても、認識の人であるためには少なからざる障害となるであろう。
(略)
ここからは『日本の作家名表現辞典』著者中村明氏の文章を一部引用させていただきます。
(読みやすいように小見出しを付けました)
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痛快な逆説
表題ひとつにしても、ふつうに「頭」と漢字で書かず、あえて「あたま」と仮名書きにして、頭部・頭蓋・頭脳・思考など多様な意味をもつこのことばを巧みにあやつる。
全編、比喩と逆説で展開する、エスプリに満ちた痛快な随筆だ。
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頭が良いも悪いも両方必要
科学者になるには頭がよくなくてはいけないというのが世間一般の通念であり、事実、「論理の連鎖のただ一つの環をも取失わないように、また混乱の中に部分と全体との関係を見失わないようにするためには、正確で且つ緻密な頭脳を要する」。
また、「紛糾した可能性の岐路に立ったときに、取るぺき道を誤らないためにほ前途を見透す内察と直観の力」が必要だ。
どちらにしても頭のよいことが必須の条件のように思われる。
この筆者もその点を否定するわけではない。
しかし、一方で、「科学者ほあたまが悪くなくてはいけない」という命題もまた正しいというのである。
頭のよいことが必要だという条件は常識的だからあらためて主張するまでもないが、頭が悪くなくてはいけないというほうの条件は常識に反するし、誰も主張しないので、ここで特に力説しておく必要があるとして、この逆説的な命題の解明を以下に多角的にくりひろげる。
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物分かりの悪さこそが大切
まずは科学者に要求される頭の悪さの程度の問題から始め、「普通の頭の悪い人よりも、もっともっと物分かりの悪い呑込みの悪い」ことが必要だと結論する。
常識的にわかりきったこと、「普通の意味でいわゆるあたまの悪い人にでも容易にわかったと思われるような尋常茶飯事の中に、何かしら不可解な疑点を認め」ることがきっかけとなって科学の研究が始まるからである。
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脚の早い旅人は肝心なものを見落とす
次に、「頭のいい人は、云わば脚の早い旅人」のようなもので、他人より早く目的地に到着するが、その道端や脇道に落ちている肝心なものを見落としやすく、脚がのろく遅れて来た人が「その大事な宝物を拾って行く」というたとえ話を出す。
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裾野から頂上を眺める人は山に登らない
また、頭のいい人は「富士の裾野まで来て、そこから頂上を眺めただけで、それで富士の全体を呑込んで東京へ引返す」が、実際に登ってみなければほんとうの富士はわからない。
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見通しが利き過ぎる人は挑戦しない
さらに、頭のいい人は、「見通しが利くだけに、あらゆる道筋の前途の難関が見渡されて「前進する勇気を阻喪しやすい」のに対し、頭の悪い人は「前途に霧がかかっているために却って楽観的」にためらわずに踏み込む。
どうしても切り抜けられない難関は稀なので、どうにかなることが多い。
同様に、頭の悪い人は、頭のいい人にははじめから駄目にきまっているような試みを、わけもわからずやってみて、悪戦苦闘の結果、やはり無理だとわかって中止するとしても、それまでの過程で「何かしら駄目でない他のものの糸口」をつかむことも少なくない。
それは、無駄な試みとわかっていて賢明にも手を出さなかった頭のよい人には、永久に手にふれる機会のない大事な糸口であることもある。
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科学は偉大なる迂愚者の歴史
引用箇所の冒頭に出てくる「科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史」という極言は、その意味で説得力がある。
だからこそ「偉大なる迂愚者(おろかもの)の頭の悪い能率の悪い仕事の歴史」であると言えるのだ。
頭のいい人は「頭の力を過信する恐れがあ」り、自分の考えに合わない現象に出あうと、「自然の方が間違っている」と考えやすい。
一方、自分の思ったとおりの結果が出ると、それが「別の原因のために生じた偶然の結果」である可能性を疑わない傾向がある。
頭のいい人には「他人のする事が愚かに見え、従って自分が誰よりも賢いというような錯覚に陥りやすい」ため、どうしても向上心が鈍って進歩が止まる。
それにひきかえ頭の悪い人は、逆に「他人の仕事が大抵みんな立派に見える」し、また、どんな偉い人の立派な仕事を見ても、頭が悪いおかげで自分にもできそうな気分になり、大いに刺激を受ける。
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格物致知とは
「最後にもう一つ」として、引用箇所の最も重要な指摘に移る。
おそらくこれこそが寅彦の主張の中心をなすのだろう。
「格物致知」とあるのほ中国の古典『大学』の中に出てくる一句らしい。
「格」という語を、朱子学でほ「至る」と読んで、ものごとの道理を究めるという主知的な解釈を採用し、陽明学では「正す」と読んで、心正しく知識を深めるという実践的な解釈を採用するという。
いずれにしろ、どの時代にも「認識の人」になりきれない学者が偉そうな顔で幅を利かせていたものと見える。
「ウパニシャド」はバラモン教の聖典『ヴューダ』の最終部分にあたる古代インドの哲学書らしい。
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科学だけが「学」ではない
つまり、頭のいい科学者はとかく、科学を「人間の智恵のすぺてであるかのように考え」やすいが、そのウパニシャドや老子やソクラテスといった哲学の世界に対しても、芭蕉の文学、広重の絵画といった芸術の世界に対しても、科学は問題解決の糸口さえ提供できないでいる。
科学と道のつながっていないそういう別世界が人間にとって存在しているという厳然たる事実を無視して、科学だけが学であるなどと思い込むのはとんでもない錯覚だというのだ。
これは学問の、ひいては人間の思いあがりを戒める警鐘であり、特に科学万能のこの時代にあって、忘れてはならない教訓を含む名言である。
(以上中村正さんの引用終わり)
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科学者のみならず凡人たる私たちでさえ、考えすぎて臆病になりがちです。
なにか背中を一押しされたように感じます。
それとブンカケイテキ学問(つまり人間学=教養)の大事さを強調していることは現代への警鐘に思えます。
最近、政府が大学の教育を理科系に特化させようとしている記事を読んでびっくりしましたが、「性能高き国畜」の量産を計画しているように思えてあきれます。
現代の科学者には、寺田寅彦さんや湯川秀樹さんのような、人間学としての教養をもった真の科学者をめざしていただきたいものと思います。
BY NOBO
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