劣等生賛歌
久しぶりに内田樹さんのブログを開いてみました。
相変わらず「う~~む、なるほど!」と触発されるお話しばかりです。
(「奇跡のむらの物語」より)
そのうちから、「半分あきらめて生きる」というブログについて紹介かたがた一緒に考えてみたいと思います。
内田さんは、人には生まれつき二種類があって、どっちかにしかなれないんだと語っています。
なじみやすい言葉で(私が)言い換えると、「優等生」と「劣等生」。
あるいは「富貴の人」と「卑賤の人」。
実はこの二種類は、程度の差ではなくて、種の生存のためにもともと別な「才能」を授けられている別種であるらしい。
内田さんはまず、白川静氏が「孔子の生まれ育ち」について論じたことを例に出します。
かつて白川静は孔子を評してこう書いたことがある。
「孔子の世系についての『史記』などにしるす物語はすべて虚構である。
孔子はおそらく、名もない巫女の子として、早くに孤児となり、卑賤のうちに成長したのであろう。
そしてそのことが、人間についてはじめて深い凝視を寄せたこの偉大な哲人を生み出したのであろう。
思想は富貴の身分から生まれるものではない」。(白川静、『孔子伝』、中公文庫、2003年、26頁)
思想は富貴の身分から生まれるものではないというのは白川静が実存を賭けて書いた一行である。
「富貴の身分」というのはこの世の中の仕組みにスマート適応して、しかるべき権力や財貨や威信や人望を得て、今あるままの世界の中で愉快に暮らしていける「才能」のことである。
「富貴の人」はこの世界の仕組みについて根源的な考察をする必要を感じない(健康な人間が自分の循環器系や内分泌系の仕組みに興味を持たないのと同じである)。
「人間いかに生きるべきか」というような問いを自分に向けることもない(彼ら自身がすでに成功者であるのに、どこに自己陶冶のロールモデルを探す必要があるだろう)。
富貴の人は根源的になることがない。そのやり方を知らないし、その必要もない。
そういう人間から思想が生まれることはないと白川静は言ったのである。
新しい思想、システムを準備できるのは「卑賤の人」である。と言っています。
同じように(かつて私たちもそうであったように)子どもにも「優等生」と「劣等生」がいます。
それは成績の善し悪しをいうのではなく、考える方向性の違いをいいます。
しかもその二つのどちらか一方しか選ぶことはできないのだ、と内田さんは書いています。
自分の将来について考えるときに、「死ぬまで、この社会は今あるような社会のままだろう」ということを不可疑の前提として、このシステムの中で「費用対効果のよい生き方」を探す子供たちと、
「いつか、この社会は予測もつかないようなかたちで破局を迎えるのではあるまいか」という漠然とした不安に囚われ、その日に備えておかなければならないと考える子供たちがいる。
「平時対応」の子供たちと「非常時対応」の子供たちと言い換えてもいい。
実は、彼らはそれぞれの「モード」に従って何かを「あきらめている」。
「平時対応」を選んだ子供たちは、「もしものとき」に自分が営々として築いてきたもの、地位や名誉や財貨や文化資本が「紙くず」になるリスクを負っている。
「非常時対応」の子供たちは、「もしものとき」に備えるために、今のシステムで人々がありがたがっている諸々の価値の追求を断念している。
どのような破局的場面でも揺るがぬような確かな思想的背骨を求めつつ同時に「富貴」であることはできないからである。
二通りの子供たちはそのまま大人になり、すでにあるシステムにそのまま乗っかり果実を享受するのは「平時対応」つまり「優等生」です。
しかし、彼らの基本は「自己保身」であり、変革を必要とするときにはまったく頼りになりません。
まるで3.11の時の東電本社エリート層みたいです。
彼ら(平時対応の人々)はシステムが瓦解する場には居合わせたくないのである。
破局的な事態が訪れたあと、損壊を免れたわずかばかりの資源と手元に残っただけの道具を使って、瓦礫から「新しい社会」を再建するというような面倒な仕事を彼らは引き受ける気がない。
だから、私たちがこの先頼りにできるのは、今のところあまりスマートには見えないけれど、いずれ「ひどいこと」が起きたときに、どこにも逃げず、ここに踏みとどまって、ささやかだが、それなりに条理の通った、手触りの優しい場、人間が共同的に生きることのできる場所を手作りしてくれる人々だということになる。
私はそう思っている。
もうひとつの種族「非常時対応の子供たち」、つまり劣等生こそ、人間という種の希望であるようです。
それは親も政治も期待する(人に使われる)性能高きグローバル型優等生の華々しき姿とはまったく正反対の姿です。
経済社会の中で恵まれず、不満げな表情でくすぶりつつも、しかし何かを考え続けている人たち、何かを創造しようとしている人たちです。
いずれそのような重大な責務を担うことになる(非常時対応の)子供たちは、たぶん今の学校教育の場ではあまり「ぱっとしない」のだろうと思う。
「これを勉強するといいことがある」というタイプの利益誘導にさっぱり反応せず、「グローバル人材育成」戦略にも乗らず、「英語ができる日本人」にもなりたがる様子もなく、遠い眼をして物思いに耽っている。
彼らはたしかに何かを「あきらめている」のだが、それは地平線の遠くに「どんなことがあっても、あきらめてはいけないもの」を望見しているからである。
たぶんそうだと思う。
内田さんのイメージしている「劣等生」とは、単なる「怠け者」ではなくて、現世利益的な価値観にどうしても染まることができない「偏屈者」のようです。
実は「偏屈者」とは視野が広く視点が遠くにある人なのだと言っているようです。
そのような人がいないと、あるいは育てないと、社会を存続させるためのシステム変革ができないということです。
山口昌男さんは「道化とは変革者が世をしのぶ仮の姿である」と言いました。
こう言い換えることができるかもしれません。
「(真の)劣等生とは変革者が世をしのぶ仮の姿である」と。
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このような大切な「劣等生」をいかに育てるか?
それは、学校教育を国家株式会社の予備校化したり、競争性能だけを高め、一見無駄な幅広い教養を軽視する教育ではだめと、内田さんは別なブログで書いていたように思います。
私もまったく同感です。
教養なき能力は、「創造」がなくて「競争」だけあるのと同じです。
冷蔵庫に材料がない調理名人と同じです。
いくら調理技術が高くてもろくな料理は出せません。
それはもはや「能力」でなくて「性能」とよぶべきものでしょう。
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