江戸時代が長く続いたわけ
江戸時代が265年もの長きにわたって続いたわけ、それは「権力」と「金」の人工的かつ絶妙なバランス・システムでした。
まがりなりにも平和を維持してきた私たちの戦後70年。
とはいっても江戸時代と比較するなら道のりはまだ四分の一です。
なにゆえ、かくも長く平和で平穏な社会を江戸時代は継続できたのでしょうか。
石川英輔さんは『大江戸生活事情』のなかで、その理由を徳川家康以来続く幕府の基本方針の一つにあると語っています。
それは「権あるものには禄うすく、禄あるものには権うすく」という方針です。
貧しい武士たちの支配の構造
革命とはおよそ縁のない時代
「江戸時代の庶民は、武家支配の重圧に反抗し続け、そのエネルギーが……の形を取って現われた」というような表現は、いわゆる進歩的文化人といわれる人たちの決まり文句になっているが、あの平穏無事な時代の日本人がこぞって社会主義革命を期待していたように書くのは、実情を知らなさすぎるといわざるをえない。
もちろん、人間の住んでいる所に不平不満が絶えることはないから、武家支配に反抗していた人もいるに違いない。
だが、全体として見た場合江戸時代の社会は革命とはおよそ縁がなかった。
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権力と富の分離
その理由は、徳川幕府の方針として、当時の日本の社会構造が、権力と富を一部の人間に集中させるようになっていなかったからだ。
形式上は征夷大将軍の軍事政権による専制政治とはいっても、その点、革命の起きたフランスやロシア、中国などとはかなり異質の社会だったのである。
徳川家康以来、「権あるものには禄うすく、禄あるものには権うすく」というのが幕府の基本方針の一つになっていた。
つまり、権力を握っているものは物質的にあまり恵まれないようにし、裕福なものには大きな権力を持たせないようにしたのである。
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大名の実例
この方針は、最高権力者である将軍自身を例外として、上から下までかなりよく守られた。
たとえば、徳川家の先祖から仕えている譜代大名は、井伊家の三十五万石を例外として、五万石から十万石程度の領地しか与えられなかった。
大名の禄高としては中以下というところだ。
幕府の首相に相当する老中は、譜代大名の中から選ばれることになっていたので、「権あるものには禄うすく」の原則が適用されたのである。
一方、加賀の前田百二万二千七百石、薩摩の島津七十七万八百石、仙台の伊達五十九万五千石、熊本の細川五十四万石などの大藩は、もともと徳川家の家臣ではなかった外様大名で、財力はあるものの、「禄あるものは権うすく」で、中央政治にはいっさいタッチできない仕組みになっていた。
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貧しい武士
国政レベル以外でも、結果として同じ原則が通用していた。
武士階級は、政治家あるいは行政官としての権力を握っていた代わりに、経済的な力は非常に弱かった。
特に江戸時代中期以後になると、前項にくわしく説明したように武士は貧しいのが当たり前のようになってしまい、大名ですら、商人から借金に借金をかさねたあげく、経済的には豪商に頭が上がらないのが普通だったし、領地の農民に生活費の使いみちまで指図されながら、細々と暮す旗本さえ珍しくなくなったのである。
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外国で革命が起こるわけ
パリのヴェルサイユ宮殿や北京の紫禁城、サンタト・ペテルブルグ(旧レニングラード)の冬宮やエルミタージュなどを見ると、その豪華さには驚かざるをえないが、こういう国で大革命が起きるのは当然だという気がする。
絶対的な権力ばかりか国中の富を一手に集めるようなことをすれば、国民の不満が鬱積しない方が不思議ではないか。
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武力に頼らなかった武士
それでは、経済力のない貧しい武士たちがどうして支配階級としての権威を長年にわたって守り続けられたのであろうか。
テレビの時代劇では、武士はすぐに刀を抜いて町人をおどすが、戦国時代ならともかく、平和な世の中が百年も二百年も続けば、武力だけでは人を従わせることができなくなる。
「切り捨て御免」などということを本当にやっていれば、それこそいずれは革命が起きたことだろう。
切り捨て御免が認められた例など、全国的にもごくまれらしいし、少なくとも江戸では一件もないということだ。
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道徳と学問とやせ我慢
経済力もないうえ武力も行使できなくなった武士階級の選んだ道は、支配者としての厳格な道徳律を守り、学問に励むことだった。
当時の学問の主流は儒学だから、武士たちは、たとえ身分が低くても、少なくとも漢学の基礎だけは身につけた知識階級でもあったのだ。
その上、俗にいう「武士は喰わねど高楊枝」、つまり、空腹でもやせ我慢をして満腹しているような顔をするというたぐいの厳しい自己犠牲によって、権威を守ったのである。
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制限の多い生活
武士の中でも地位が高ければそれだけ行動にも服装にも制約が多く、庶民に比べるとかなり制限の多い生活をしなくてはならなかった。
たとえば、徳川家の家臣である直参の旗本や御家人は、許可なく外泊することさえできなかった。
一旦ことがあれば将軍家の警護に馳せ参じなくてはならないたてまえだからで、外出しても夜中までに帰宅しなくてはならないのだ。
庶民は、たとえ吉原へ泊まり込んでいつづけしたところで、現在のわれわれ同様に、金と仕事と健康状態と女房の問題にすぎないから気楽なものだった。
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町人が服従したわけ
権力も富も一手に握り、庶民とかけ離れた生活をする支配階級は、社会主義国ではごく普通だったし、開発途上国にもしばしば見られる。
最近では、日本でも政治家や高級官僚、財界人などにそういう傾向がはっきり出て来たが、江戸時代の支配階級である武士たちは基本的な発想が違っていたのだ。
町人たちが経済力を完全に握って、商工業を支配するようになってからも、政治や行政の面で武士階級に服従し続けたのは、その生活態度に金では買えない高い権威を認めていたからにほかならない。
武士は、貧しさに耐えて階級の誇りを守り抜いたのである。
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多様な価値観の時代
経済大国になった現在の日本では、価値の規準は金しかないといってもいい状態になってしまった。
企業人の場合はいうまでもないが、政治家も金だけで動くし、芸術家でさえ作品や演奏、演技などに支払われる対価のほかには価値の規準がほとんどないように見える。
ところが、江戸時代の日本の社会では、支配階級が金に換算できない独特の価値観に従って生きていたため、庶民も多様な価値観に従って生きることができた。
葛飾北斎は、当時としても人気のある絵師だったが、尊敬されたのは素晴らしい絵を描く腕前であって、絵が高く売れたからではない。
実際に、北斎は死ぬまで自分の家も持たずに借家を転々として貧乏暮しをしていた。
伝説上の名工である左甚五郎も、人を驚かすほど見事な仕事を残してふっとどこかへ行ってしまう。
けっして、高額の請求書をつきつけたりしない。
金に執着せず無欲だから偉大な職人として尊敬のまとになったのだ。
こういういわゆる職人気質も武士階級の影響というより、武士の気風を模倣した面が多いのではなかろうか。
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やせ我慢の功績
やせ我慢をすればするほど、庶民が服従してくれたというのは、武士階級にとって大変皮肉な結果だった。
権威だけはあっても、というより、権威があるからこそ貧しさに耐えなくてはならず、耐えれば耐えるほどその状態が半永久的に続いたからだ。
しかし、そのおかげで戦乱のない時代が二百年以上も続いたことは評価しても良いのではあるまいか。
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現代の民主主義と比べれば
現在は、特定の階級や家柄に関係なく、自由に立候補し自由に選挙することによって、優れた人材を政治家として選べるような社会になっている。
だが、この民主主義体制が立派なたてまえや宣伝ほどには、素晴らしい結果を生んでいないことも常識になっている。
法律やスローガンさえ立派にすれば、世の中がその通りになるのなら、法学者と詩人で天国を作れるはずだ。
庶民が気楽にのんびりと生きられるかどうかは、必ずしも紙に書いた立派なたてまえやスローガンとは関係がないのである。
あらゆる社会問題は「不平等」から生じるといっても過言ではないと思います。
なるほど、こんな「不平等対策」もありうるんですね。
徳川家康はやはり並々ならぬ人だったんだな~
by ノボ村長
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