本を読むなという「読書論」
吹く風もすっかり秋めいてきました。いよいよ読書の秋が到来です。
今から6年前、2014年に青色発光ダイオードの発明でノーベル賞が授与された中村修二さんの興味深い話を思い出しました。
その頃のブログに書いていましたので再掲です。
それは「本を読むなと言われました」というお話です。
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中村修二さんの大学時代の恩師は(同じ研究の)本を読んでいる中村さんを叱ったそうです。
「人の考えたことをなぞるより独自のことを考えろ」と言って。
このエピソードを聞いて、ある本の一節を思い出しました。
その一節はショーペンハウエルという変わり者?の哲学者が書いた『読書について』という本にあります。
意地悪爺さんショーペンハウエルは、中村氏の恩師と同じことをこの本の中で語っていました。
読書は、他人にものを考えてもらうことである。
本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。
習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書き線をペンでたどるようなものである。
だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。
自分で思索する仕事をやめて読書に移るとき、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。
「読書って『自分頭』じゃないよ。『他人頭』だよ」って、ズバリと言い切ってるところが面白いですね。
だが読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。
そのため、時にはぼんやりと時間をつぶすことがあっても、ほとんどまる一日を多読に費やす人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。
常に乗り物を使えば、ついには歩くことを忘れる。
しかしこれこそ大多数の学者の実情である。
彼らは多読の結果、愚者となった人間である。
なぜなら、暇さえあれば、いつでもただちに本に向かうという生活を続けて行けば、精神は不具廃疾となるからである。
だんだん過激な反読書論になってきましたよ・・・
実際絶えず手職に励んでも、学者ほど精神的廃疾者にはならない。
手職の場合にはまだ自分の考えにふけることもできるからである。
だが、バネに、他の物体をのせて圧迫を加え続けると、ついには弾力を失う。
精神も、他人の思想によって絶えず圧迫されると、弾力を失う。
食物をとりすぎれば胃を害し、全身をそこなう。
精神的食物も、とりすぎればやはり、過剰による精神の窒息死を招きかねない。
多読すればするほど、読まれたものは精神の中に、真の跡をとどめないのである。
たしかに、本をこんなに読んでて、なんでこんなにアホなんだと思わざるをえない人間は多いな。
つまり精神は、たくさんのことを次々と重ねて書いた黒板のようになるのである。
したがって読まれたものは反芻(はんすう)され熟慮されるまでに至らない。
だが、熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。
食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。
それとは逆に、絶えず読むだけで、読んだことを後で考えてみなければ、精神の中に根をおろすこともなく、多くは失われてしまう。
しかし、一般に精神的食物も、普通の食物と変わりはなく、摂取した量の五十分の一も栄養となればせいぜいで、残りは蒸発作用、呼吸作用その他によって消えうせる。
なるほど、たとえがおもしろい。納得・・・。さて結論です。
さらに読書にはもうひとつ難しい条件が加わる。
すなわち、紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。
歩行者のたどった道は見える。
だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。
う〜ん。意地悪爺さんショーペンハウエルの言うことは、皮肉も痛烈だが、でも本質を突いている。
彼はとても人間的な哲学者だったようです。
ラッセルの「西洋哲学史」に、彼のエピソードが書かれています。
さもありなんと思わせます。
でも私はこんな意地悪爺さんを憎めないですね。
<ショーペンハウエル爺さん関係の過去ブログ>
毒舌幸福論「人は変わりようがないのさ」
ショーペンハウエル「悩みは幸福の尺度である」
睡眠は死への利息払い
本を読むなという「読書論」
超訳「毒舌幸福論」
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