中川一政「向田さんのこと」
図書館で「中川一政全文集」をめくっていたら「向田さんのこと」という一編を見つけました。
淡々とした文章であればこそかえって向田さんの面影が偲ばれます。
それとともに故人を偲ぶ一政の思い、すーっと冷たい風が体を吹き抜けるような・・・、そんな感じを読む人に与える一篇です。
向田さんのこと
向田さんに会ったのは一九八〇年の十一月で週刊誌の対談記事の取材に来た時である。
その後、「あ・うん」の装帳をした時お礼にみえた。しかし、向田さんは私のことを見ていたかもしれない。
その以前、毎年私は銀座の吉井画廊で個展をしていた。
その都度、女の文士が私の画を買いにくると画廊で云っていた。
あの画は売れたというと是非もう一度あの図柄をかいてほしいと云う。
「もうわれはだめだと思う時もある。やってゆこうと勇む日もある。」と讃をした画である。それから新聞広告に向田さんの肖像が出た背景に「僧は敲く月下の門」と云う額がかかっていた。それも買っていたとみえる。
ものを書く人だからであろう。
そういう縁で「隣りの女」の装偵もした。私の誕生会へも出席してもらった。「週刊朝日」の対談にも出、だんだん話すようになった。
声は決して高い声ではないが神経の通っている声であった。
石井好子がさそって一緒に来た時も好子に酒をのませて自分は控目にのんでいたが、本当は大変な酒豪だときいた。どうだかわからないがその方が神秘で向田さんらしくもある。シルクロードヘゆく前に一寸ひまが出来たので台湾へ行ってくるからと遊びに来た。シルクロードの旅は使所のないような辺鄙なところの旅だと云った。
私はこうもり傘をもって行って人が来たらぐるぐる回していればよいとからかった。それが八月十一日であった。
台湾から帰ったらその翌日、私は奈良の工房へ陶器をつくりにゆくことになっていた。皆と一緒につれて行ってくれと云うのである。台湾から帰った翌日である。帰ってすぐでは無理だろうと云ったら、「私は学校では運動選手だったのよ。」と目を輝かした。
それが向田さんを見た最後であった。
今年になって向田さんを知っている人達で京都、奈良行をして郡山の慈光院や法隆寺をまわり工房へ行って陶土をひねった。皆、とても楽しかったと云った。またつれて行ってくれと云うのだが向田さんをつれて行くことは出来ない。
中川一政の家系は金沢の刀鍛冶でしたが、時代のせいか父は東京で別な仕事をしていました。
母を幼少の頃に亡くした一政は貧乏で中学校以上には行けませんでした。
人生に対するやるせない思いを創作で昇華しようと、最初は短歌や詩、散文を書いて投稿していました。
21歳の頃、知り合いからニュートンの絵の具をもらい初めて油絵を描きました。
その作品「酒倉」が岸田劉生の目にとまり、彼の弟子として絵描きの道のりを歩み始めました。
その後ゴッホやセザンヌなどの影響を受けながら、独自の骨太い芸術を97歳でこの世を去るまで絶え間なく究め続けました。(下の写真は22歳頃の一政を岸田劉生がスケッチしたものです)
一政の芸術には境界というものがおぼろげで「絵」「書」「文芸」「陶器」など多方面でその芸術を究めていきました。
下の写真は「中川一政全文集」です。1冊3百ページ平均にして3千ページ、このブログにしたら3千回分もあります。
本業?の絵のほうも得意のバラの絵だけでも推定8百枚も描いているのですから、その創作力に驚かされます。
驚くのは文章が本当に読みやすいことです。あっというまに三巻くらいは読んでしまっています。
斧で薪を割るような、静かで、緊張感があって、力強く、日々修行、その感覚は彼のどの作品を観ても同じく感じられます。
近いうちに岸田劉生とか梅原龍三郎とか彼の周りにいた人々との関係を描きつつ、「一政」という人間とその人生をすぐそこに見えるようにしてみたいな、などと考えています。
もちろんその一部をスナップのように数枚写して現像してみたいというレベルですが。
あっそれと初めて知ったんですが、彼は戦時中わが宮城県大和町宮床地区に疎開していたんですね。
そのせいなんでしょうか、その近く出身の恋多き女流歌人「原阿佐緒」とも知り合いで、原阿佐緒の息子(俳優)と一政の娘は結婚もしていました。
タイトルにのっけたくせに向田さんのことについてはさっぱり書かないでしまいました。
没後妹さんが著した「向田邦子の恋文」は私には衝撃的な本でした。
こんな切ない恋愛が向田さんの青春にあったのかと言葉がありませんでした。
その後の彼女の創作のどれよりもドラマチックでありました。。。
参考:「僧は敲く月下の門」
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