「仕事」と「いのち」
今じゃみんな「仕事」という名でひとくくりです。
畑を耕すことも、金で金を買うことも、美しいことも醜いことも。
でも、ひとくくりにしてはいけないのでは?
言葉が貧しいから感性が貧しくなるのか、感性が貧しいから言葉が貧しくなるのか、よくわかりません。
単純な言葉になっていく怖さを日々感じるこの頃です。
同じような言葉に「愛」があります。
本来は「渇愛」「熱愛」「情愛」「親愛」「慈愛」とわけるべき言葉を、一律に「愛」という言葉でひとくくり。
他者を排除する「愛」と、他者を慈しむ「愛」とが区別されていません。
それぞれ違う「仕事」が、それぞれ異なる言葉で表現されるようになればいいなと思います。
「善き仕事」「美しき仕事」というものが、より輝きを増すために。
内山節「戦争という仕事」より
平和
・・・この農業のなかでは、何がおこなわれてきたのだろう。私は、それは「いのち」のやりとりだったのだと思う。
畑では作物という「いのち」を育てる。それを実現させるのは、人間の労働であるとともに、自然の力=自然の「いのち」である。
その作物を人間がいただき、自分たちの「いのち」の源にする。過去から未来へと結ばれていく「いのち」の展開を感じながら、農民は土を耕す。だから、自分たちの仕事が無事であることが、「いのち」の展開が無事であることを意味し、人々は「いのち」の無事としての平和を感じとることができた。
こういう感覚が基礎にあるから、かつては手工業者や職人たちも、「いのち」にこだわったのではなかったか。大工さんたちは木の「いのち」を活かす家づくりをした。鍛冶屋さんは金属の「いのち」を、焼物師は土や炎の「いのち」を、作品のなかに保存しようとした。
その「いのち」が、今日の市場経済の社会では感じられなくなった。パソコンに「いのち」の結晶を感じることがあるだろうか。家のなかにある電気製品も、衣類も、食品さえもが、道具であり、何かの手段であり、お金で買うもの以上の何ものでもなくなった。
消費者の態度が変わっただけではない。それをつくりだす仕事の過程からも、「いのち」のやりとりが感じられなくなったのである。生産者たちは、市場をにらみながら、そこで勝てる商品をいかに効率よくつくるかを争うようになった。
そのとき、ものづくりのなかに、無事な営みを感じ平和を感じることができなくなっていったのだと思う。だから、私たちの社会は、無事でも平和でもない。現実に戦争がおこなわれているから、という理由だけではなく、日々の経済活動も仕事も、無事でも平和でもないからである。
「いのち」をみつめることを仕事のなかでやめたとき、私たちは無事や平和の原点にあるものを捨ててしまった。
ただし、−度だけ、日本の人々はこの歴史の歯車を止めようと決意したときがある。それが敗戦後の日本であった。このとき人々は、平和な仕事、平和な暮らし、平和な社会を希求し、「いのち」のあり方をみつめた。
だがその心情を、高度成長以降の社会が風化させた。その歴史をへて、私たちの気持ちはいま再び、農業などの「いのち」と結ばれた仕事に対する憧れを育みはじめている。今日では、土を耕し、作物を育ててみたいと思う人は、驚くほど多い。市場経済のなかで失ったものを、取り戻したくなったのである。
by ノボ村長
Category: キラっと輝くものやこと, 伝えたいこと, 未分類