情熱のうらおもて
挑戦、情熱、前向き・・・これらの言葉に否定的な人はほとんどいません。
でもちょっと待てよ。。。というお話しです。
冒頭のポジティブな言葉はすべて生命活動を昂進させるものです。
それゆえ、学問、仕事、芸術、スポーツつまり人生のあらゆる場所で疑いなき「善」とみなされてきました。
いつのまにかそれが社会の教義のようになり、暗いこと、悲観的なこと、静かなことなどは「負」の価値観とみなされるようになりました。
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さらに教義は形骸化し、ポジティブは見た目だけの価値観、つまり「ファッション」に近づいてしまいました。
「ポジティブな人は見た目もきっとポジティブであるはず」と。
同時に、「深い情熱」「静かな情熱」「沈思黙考」は「ネクラ」というジャンルに疎外されてしまいました。
今では、見かけ(だけ)が派手な「情熱」がもてはやされ、多くの人のあこがれを呼んでいるようです。
政治でさえも。。。
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中村邦生著『いま、きみを励ますことば』(岩波ジュニア新書)
「4章 大人の世界とは」より情熱があればいいというわけでもない
情熱というものは、いつでも称賛されるし、奨励される。情熱が否定的に考えられることは、ほとんどない。
生きる意欲や活力の証なのだから当然と言えるだろう。
激しい情熱の持ち主は、たいてい思いやりに欠ける人である。他人を思いやる気持ちは、精神の均衡が生み出す静寂の中でだけ聞こえる「低い小さな声」である。人間に対する情熱でさえ、人間性を欠いている場合が多い。
エリック・ホッファー『魂の錬金術』(中本義彦訳)
情熱はつねに肯定されるものという固定観念を強く持っている人には、いささか不意を衝かれることばに違いない。
しかし、ここで指摘されていることもまた重要な人間的真実の一つとして、心の隅に留めておくべきなのだ。
無我夢中で何かに没入し、がむしゃらに情熱を燃やして突き進んでいる状態は、他者など存在しないかのように、しばしば気持ちが排他的で閉じている。
したがって、一見すると賛嘆したくなる情熱的な行為も、実はまわりの人びとの犠牲と忍耐によってはじめて可能となっている側面があるのだ。
他人を思いやり心を配る気持ちは、決して声高なものではなく、「精神の均衡」の「静寂」から生ずる。
情熱あふれる姿というものは華やかで、たしかに他人の注目を浴びる場合が多いけれど、その華やかさを過信してはいけないのだ。
情熱というものは、「薬味として限定的に使う」 べきだとも、ホッファーは言っている。
「激しい情熱」が均一的な感情として集団化した場合は、どうだろうか。
集団全体が、外に向かって排他的にふるまう。
そのような状態のときは、内側に向かっても必ず排他的になっている。情熱を共有しない者は、抑圧され、排除されるのだ。
エリック・ホッファー(1902-1983)はアメリカの思想家。港湾労働者として働きながら、独学で思索を続け、(沖仲仕の哲学者)と呼ばれた。近年、再評価が高い思想家である。代表的著作に『波止場日記』『現代という時代の気質』『エリック・ホッファー自伝』などがある。
引用の蔵言とともに、つぎのことばも考えさせられる。
「情熱の大半には、自己からの逃避がひそんでいる。何かを情熱的に追求する者は、すべて逃亡者に似た特徴をもっている」
海は深くなればなるほど暗くなります。
良い酒は醸(かも)す間が長い、という箴言もあります。
「情熱」とは、決して見かけの元気よさ、強さ、華々しさと一体のものではありません。
むしろその反対に見えるものにこそ、真の奥深き情熱が潜んでいることも多いのではないでしょうか。
浅はかな情熱は「優越」をめざし、奥深き情熱は「創造」をめざす、と私は思っています。
「優越」への欲求は「傲慢」や「排他」につながりやすいものです。
「創造」とは「善きこと」「美しきこと」を生むことです。
それは「慈しみ」「親愛」「思いやり」と必ずつながっているものです。
同じ「情熱」という心の動きでも、その顕れかたはまったく異なることでしょう。
特に若者には、そのことを知ってもらいたいものだと強く思うのです。
byノボ
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