アダム・スミスの悩み
私が名著と思うのは内山節(たかし)『戦争という仕事』です。
私たちはほとんどの時間を「仕事」に費やしています。
その本質について考えさせられる本です。
経済学の祖とよばれる偉人たちは、実はとても「人間的な眼差し」を持っていたんだな~と思います。
年端もいかぬ子供たちが奴隷のように労働させられる現実に心痛め、「資本論」を著したマルクス。
「貨幣愛」が生むグローバルな貧富の格差を食い止めるために、負の利子率を持つ決済通貨「バンコール」を提案したケインズ。
そして自由主義経済学の祖といわれるアダム・スミスも人間価値と経済価値の両立についてとても悩んだようです。
マネー経済に翻弄され続ける今こそ、根源的な問いかけによる新しい「経済学」が求められているように思います
それは「日々の仕事」や「日々の暮らし」という当たり前のことに、価値を再発見していくことから始まるのではないでしょうか。
内山節『戦争という仕事』にある一篇「価値」をもとに、貧しき自分頭で少し考えてみました。
(読みやすいように小見出しを付けました)
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「仕事」ってのは金だけじゃないよ」と誰でものたまいます。
ところが「それじゃ他に何だ?」と問われれば、「そりゃ~人によって違うもんさ。。。」なんて口ごもってしまうのも事実です。
お金以外の価値とは何か
今日では誰もが、一面ではお金のために働いている。
収入と働くこととの結びつきを、私たちは無視することはできない。
ところが、お金のためにのみ働いているのかといえば、そうでもない。
収入とは別のところで、自分の仕事に愛着を持っている人はいくらでもいるだろう。
それなのに、お金以外の動機が何であるのかと問われると、自分でもうまく答えられないのが普通である。
だから、「何となくいまの仕事が気に入っている」というような、曖昧な答えをしてしまう。
それは、「価値」というものが持つ曖昧さからきているのだと私は思っている。
私たちはよく、自然や人間の価値、自分の価値基準などというかたちで価値という言葉を使うけれど、そのときも価値の内容は必ずしも明確ではない。
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さてアダム・スミス氏は経済活動に人間の幸せをどう重ね合わせていくべきか悩みました。
いったいそれを何で測ろうかと。
最初に考えたのは「使うことによって喜びを得る」という「使用価値」でした。
たしかにこれなら私もイケルと思うんですが。。。
人によって異なる「使用価値」
この問題は、十八世紀に誕生してくる古典経済学にも大きな影響を与えた。
たとえば経済性のことであり、それを使ったとき利用者が手に入れることのできる価値である。
経済活動が人々に豊かな有用性を提供していければ、本当の意味で豊かな社会が生まれるだろうとスミスは考えていた。
ところが、そう思いながらも彼は迷った。
なぜなら、有用性としてあらわれてくる「使用価値」は、合理的な価値量の決定ができなかったからである。
たとえば、ある人にとっては有用性の高い食べ物や衣服が、別の人にとっては有用性の低いものになる、ということはありうる。
「使用価値」には、誰に対しても共通になる客観的な価値量が存在せず、ゆえにそれは合理的にとらえられる価値ではない。
このような事情からスミスは、この非合理な価値を軸にして経済学をつくることをあきらめた。
「使用価値」ってとっても人間的なんだけど、共通の尺度にならないから不合格です。。。
「とってもいい人だけど個性的すぎて万人受けしないようだから不合格です」って感じでしょうか。
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それじゃ損得勘定を刺激する「交換価値」ならどうだろうと考えました。
だんだん、人間性から離れていくような気がしちゃうな~。。。
豊かさと無関係な「交換価値」
代わって軸におかれたのが「交換価値」だった。
単純化してしまえば、「交換価値」とは、市場での交換上の価値である。
この価値なら合理的な価値量の把握ができる、と彼は考えた。
だが「交換価値」を軸にして経済学をつくるのは問題もあった。
なぜならこの価値は市場での価値であって、その価値評価が高かったとしても、それが人々の暮らしの豊かさにつながるとはかぎらないからである。
スミスがしばしば例にあげたように、ダイヤモンドを所有することが、豊かな有用性に包まれた暮らしをもたらすとはかぎらない。
「使用価値」を基準にすれば、豊かな社会づくりとは結びついても合理的な価値把握ができず、「交換価値」を基準にすると、合理的な把握はできてもそれは市場の論理にすぎなくなって、人間たちの豊かさとはすれ違う。
「人間の幸せとは?」から出発したアダム・スミスも、やはり言葉にあやつられ「交換価値」という八方美人の価値を選んでしまいました。
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お金の社会ができたわけ
価値とは、このような性格を持っているのだと思う。
「使用価値」のように、豊かさ、幸せと結びついている価値は合理的にとらえられない、つまり非合理性のなかにある。
私たちは何のために仕事をするのか。
この間いに対しても、私たちは、自分にとっての本当の仕事の意味は説明できないのである。
それに対して、収入のために働くという説明はわかりやすいし、現実には確かにそういう面もある。
それに、仕事の価値を収入の量で測るのもわかりやすい。
そして、このわかりやすさが、お金の社会をつくりだす。
お金ほどわかりやすく、単純な基準はないのである。
だから、私たちが経済活動に合理的な基準を求めれば求めるはど、お金という基準は魅力的なものになってくる。
万人が同じように理解できる「単純価値」に勝てるものなしか。。。
お金がもし「人間そのもの」だったら「単純価値」なんかロボットみたいで無価値なんだけどね~。
でも共通土俵ということで、ここまでならしょうがないと思う。
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ところが、交換する「物」じゃなくて交換媒体の「金」だけにしか関心がなくなってしまったというのが人間の「業」。
まるで百合やバラの花よりも、それを活けている花瓶しか愛せなくなるようなもんです。
「貨幣愛」と言われるくらいだから、貨幣の持つフェロモンはヘロインを超えるほど超強力!中毒へまっしぐら。。。
やがて貨幣愛に蝕まれていく
二十世紀の経済学者、ケインズは、資本主義社会は貨幣愛の社会だと述べた。
お金が基準になるから、資本主義はわかりやすく、効率がいい。
しかしその過程では、人々の精神が貨幣愛に蝕まれていく、と。
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経済世界では多様で個性的で面倒くさいのはみんな日陰の生き物。
合理的価値といわれる「顔なし」だけが花形となっている世界。
その本質が単に「わかりやすさ」だけだったとは。。。
こんなことだけのために?と、失った価値を思えば愕然とします。
「非合理な価値」の大切さ
合理的な価値と非合理な価値との関係を、間違えてはいけないのだと思う。
合理的なものは、わかりやすくても本当に大事なものではない。
ところが近代思想はそれを間違え、すべてを合理性のなかに解消しようとした。
それが、今日の人間の存在の不安定感をつくりだした。
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「交換価値」だけの経済学は「効率教」という宗教を生みました。
私たちは程度の差こそあれ皆その信者です。(私だってそうです。。。)
この宗教の教義はとっても単純で、それゆえ皆が従うのです。
「効率(利益)以外なにも考える必要はないんだよ」というんですから。
「効率教」という一神教は、自然や人間の持つ「多様性」を急速に奪ってきたのです。
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「多様性」は「未来の可能性」という貴重な財産です。
経済に人間性を取り戻すには、「交換価値」を全否定することなく「非合理な価値」をミックスしていくのが良いと思うんです。
それは「使用価値」「贈与価値」「共感価値」といったとてもあいまいとした価値です。
でも「暮らし」には、それらの価値が昔から今に至るまでずっと存在し続けているのです。
それゆえ私は新しい経済学というものが、机上の数式からではなく、昔から続く(多様な)「暮らし」から生まれ出ることが望ましいんじゃないかな~と素人ながら思うのです。
たとえば「小商い経済学」とか「ボランティア経済学」とか「限界集落経済学」とか「シェア経済学」なんてね。
by NOBO
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