毛細血管から飛躍した話

[ 0 ] 2016年5月24日

以前ブログに書いた毛細血管の話を思い出しました。

「なんでもクラウド化」の今、だれもが見えない無数の蜘蛛の糸で移ろう雲につながれている。

そんなイメージをふと抱いてしまったからです。

毛細血管は血液を運搬し、クラウドは情報を運搬します。

両方ふだん意識することがないのもそっくりです。

そんな連想が働いたんでしょうかね?

毛細血管は地球を一周半

数年前プールのサウナで旧知の友人と出会い、場所柄ダイエット話で盛り上がりました。その友人は不動産業が本業なんですが、どういうわけか仙台の鍼灸の学校に通っており、それがもう興味深くて東洋医学に魅せられっぱなしだと言っていました。

そのとき私たちの体に関する興味深い話を聞きました。

「私たちの体は実に想像を超えている。たとえば、体中の毛細血管をつなぐと地球を一周半もする。だから、たかが1キロ体重が増えたといっても毛細血管はとてつもなくその距離を延ばす。延びた距離に血液を送る心臓の負担を考えるとダイエットというのは実に重要なことだ」と。

途切れることなき「発見」

以前のブログで、私たちの野性的感覚をもとにして論理を組みたてなければ論理が砂上の楼閣となり私たち自身を損なうことにつながると書きました。それでこの話を思い出したんです。

人類は、偶然生まれる少数の天才によって過去から現在まで途切れることなく次々と科学の様々な法則を発見し続けてきました。それはとてつもないスケールで行われてきました。

微小な人間が宇宙の成り立ちやらその果てまでのことまで解き明かしつつあるのです。まるでウィルスが地球全体のことを理解するようなことです。

科学技術への盲目的信仰

そして解明したことがすぐに科学から科学技術にバトンタッチされ具体化し、私たちの文明が進歩してきました。新しい発見や発明があるたびに私たちは私たち自身とは隔絶した外部に法則を発見したのであり、具体化したものは私たちの外部に新たに追加拡張された善きものと考えてきました。そしてその価値を吟味することは守旧的なこととみなされがちでした。

私たちはまるで自分自身が成長していくような喜びに浸り、何の疑問も吟味もなく新発見とその成果物に身をゆだねてきました。それを進歩と感じてきました。

発見者はいつの時代でもあこがれのヒーローであり、彼らに続くためには誰よりも速く前に進めるという競争性能が最も重要な能力として認知されてきました。「なぜ?」や「何のために?」ということには無関心でも許されました。

元々内在していたことの再発見では?

しかし、もうひとつの考え方もあります。それは、新たな発見とは今までなかったことの追加拡張ではなく、そもそも私たちの肉体あるいはその派生としての私たちの言語に内在していたことの再発見とその顕在化でなのでは、という考えです。

小学校のとき原子模型をはじめて見て、だれもが太陽系とそっくりだと思ったはずです。湯川秀樹博士の本を読んでみても極小な素粒子の世界と極大な世界である宇宙の相似性を感じていらっしゃるような文章によく出合います。

相似物ゆえにスケールが異なったことでも、五感を使えなくても考えることができるのではないかと私は思うのです。そうすると考えの転換が起きます。

自然な倫理感

私たちの肉体にすべてが既にあり、それこそが解き明かしていくべき神秘の泉であるなら、あらゆる発見や発明は私たちの肉体にとってどのような価値があるのか、その具体化は私たちを損なう可能性はないのか、これらこそが進歩の目的であるという自然な倫理感が発生すると思うのです。

科学者は論理演算記憶能力よりも、今までまったく向きが異なる分野と考えていた文科系的というか哲学的な思考がもっとも要求される職業となります。従来の自分の性能を発揮し続けることがそのまま善きことを生み出すという先入観は危険なこととみなされていきます。

原子力の発見そして原爆、その延長上にあるともいえる原発、これらの貢献と惨禍を体験した科学者というより科学技術者は、心ある人物であればだれでもが今感じているはずだと思うのです。人類の持つ「傲慢」が引き起こしたことは何か、人類の持つべき「謙虚」とは何か、について。

言葉の出発点はどこか

何よりも大事なのは「私たちの内に既にすべてがある」なら私たちの原初的直感、野生の感覚こそが物事を考える出発点となるべきだ、それはすべての人に備わっているものだ、その感覚の良し悪しは能力と誤解されている性能というものよりはるかに重要なことになるはずだ、ということです。

こんな思いがこうじて『あったかギャラリー』も生まれました。

f:id:kawasimanobuo:20130529085835j:image:w640

このようなおぼろげな考えを具体的に表現してくれたレムの小説「天の声」より引用します。

私はこの作家の大ファンなんですが、彼の文章はかたいパンをかじるような難解さ、生硬さがあります。

そこが魅力的でもあるのですが。興味のある方だけお読みください。

スタニスワフ・レム「天の声」より

ことばに たいする関心を私のことに戻すことにする。ここでいえることは、ことばが生まれかけた瞬間から、現実は己の秩序をそのことばに注入しはじめたということだけだ。数学は自分が発見されるまで ーだが発明されるまでではないーあらゆることばの中で眠っているのだ。

数学の花冠であるものを、根であるものから切り離すわけにはいかない。というのは、三百年とか八百年という文明の歴史の流れの中ではなく、三千年にわたる言語の進化の中で、つまり、人間関係や言語間の環境と人間との闘争の場で数学は生まれてきたからだ。

言語がわれわれのだれの知性よりすぐれていることは、生命過程を詳細にすべて自覚している肉体そのもののほうが、それについてのわれわれの認識よりはるかにすぐれているのとまったく同じである。このふたつの進化の遺産ー生命の物質と言語の情報物質のどちらもまだ使い切ることができないでいるというのに、われわれはすでに、それらのふたつの限界を越えることを夢みている。

ことばはつまらない屁理屈をならべることできるかもしれない。しかしだからといって、言語が数学の概念の起源であり、つまりその概念が生まれてきたのは誤算からでも頭の回転が早かったからでもないとする私の論拠がそこにあるわけではない。

by NOBO

 

Category: キラっと輝くものやこと, 思いがけないこと, 新しい世界, 新しい生き方

コメントはこちらへ